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'''日本への原子爆弾投下'''(にほんへのげんしばくだんとうか)は、[[第二次世界大戦]]の末期に当たる[[1945年]]8月に、[[アメリカ軍]]が[[大日本帝国|日本]]に投下した二発の[[原子爆弾]]による[[空襲|空爆]]である。人類史上初めて[[核兵器]]が実戦使用されたものである。
 
[[太平洋戦争]]([[大東戦争]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では[[第二次世界大戦]][[太平洋]][[戦線]])における日本本土での直接戦([[本土決戦]])を避け、早期に決着させるために原子爆弾が使用されたという説(アメリカ政府公式説)と、第二次世界大戦後の世界覇権を狙うアメリカが、原子爆弾を実戦使用することによりその国力・軍事力を世界に誇示、併せてその[[放射線障害]]の[[人体実験]]を行うためであったという説などがある。
 
*[[1945年]][[8月6日]]に日本の[[広島市]]に投下された原子爆弾については、「[[広島市への原子爆弾投下]]」を参照して下さい。
== 原子爆弾投下の背景と経緯 ==
{{Main|マンハッタン計画|核兵器の歴史}}
 
日本への原子爆弾投下までの道程は、その6年前の[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]第32代[[アメリカ合衆国大統領]]に届けられた科学者たちの手紙にさかのぼる。そして、[[マンハッタン計画]](DSM計画)により開発中であった原子爆弾の使用対象として日本が決定されたのは[[1943年]]5月であった。一方で、原子爆弾投下を阻止しようと行動した人々の存在もあった。
 
=== ルーズベルトの決断 ===
[[ファイル:FDRfiresidechat2.jpg|thumb|ルーズベルト]]
[[1939年]][[9月1日]]に[[第二次世界大戦]]が勃発した。[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]から逃れて[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に[[亡命]]していた物理学者の[[レオ・シラード]]たちは、当時研究が始まっていた原子爆弾を[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]が保有することを憂慮し、アメリカが原子爆弾の開発を行うことをルーズベルト大統領へ進言する[[手紙]]を作成した。その署名者には同じ亡命科学者で著名な[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]の名を借用した。この手紙は[[1939年]][[10月11日]]に送り届けられた。その手紙には原子爆弾の原材料となる[[ウラン|ウラニウム]](ウラン)鉱石の埋蔵地の位置も示されていた。[[ヨーロッパ]]の[[チェコ]]のウラン鉱山はドイツの支配下であり、[[アフリカ]]の[[コンゴ民主共和国|コンゴ]]のウラン鉱山をアメリカが早急におさえるように提言している。ルーズベルト大統領は意見を受けてウラン諮問委員会を一応発足させたものの、この時点ではまだ[[核兵器]]の実現可能性は未知数であり、大きな関心は示さなかった。
 
[[ファイル:Otto Frisch ID badge.png|thumb|フリッシュ PJ時のID Card]]
2年後の[[1941年]]7月、[[イギリス]]の亡命物理学者[[オットー・フリッシュ]] ([[:en:Otto Robert Frisch|Otto Robert Frisch]]) と[[ルドルフ・パイエルス]]が[[原子爆弾#ウラン原爆|ウラン型原子爆弾]]の基本原理とこれに必要なウランの[[臨界量]]の理論計算をレポートにまとめ、[[イギリス原子爆弾開発委員会]] ([[:en:MAUD Committee|MAUD Committee]]) に報告した<ref>[[:en:Frisch-Peierls memorandum|Frisch-Peierls memorandum]]</ref>。そこで初めて原子爆弾が実現可能なものであり、航空爆撃機に搭載可能な大きさであることが明らかにされた。[[ウィンストン・チャーチル]][[イギリスの首相|英国首相]]が北アフリカでの[[イギリス軍]]の大敗などを憂慮してアメリカに働きかけ、このレポートの内容を検討したルーズベルト米国大統領は1941年10月に原子爆弾の開発を決断した。
 
[[1942年]]6月、ルーズベルトは[[マンハッタン計画]]を秘密裏に開始させた。総括責任者には[[レズリー・グローヴス]]准将を任命した。[[1943年]]4月には[[ニューメキシコ州]]に有名な[[ロスアラモス研究所]]が設置される。開発総責任者は[[ロバート・オッペンハイマー]]博士。20億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]の資金と科学者・技術者を総動員したこの国家計画の技術上の中心課題はウランの濃縮である。[[テネシー州]]オークリッジに巨大なウラン濃縮工場が建造され、2年後の[[1944年]]6月には高濃縮ウランの製造に目途がついた。
[[ファイル:Oppenheimer Los Alamos mugshot.jpg|thumb|オッペンハイマー, PJ時のID Card]]
[[1944年]][[9月18日]]、ルーズベルト米国大統領とチャーチル英国首相は、[[ニューヨーク州]]ハイドパークで首脳会談した。内容は核に関する秘密協定([[ハイドパーク協定]])であり、[[大日本帝国|日本]]への原子爆弾投下の意志が示され、核開発に関する米英の協力と将来の核管理についての合意がなされた。
[[1942年]]6月、ルーズベルトはマンハッタン計画を秘密裏に開始させた。総括責任者には[[レズリー・グローヴス]]准将を任命した。[[1943年]]4月には[[ニューメキシコ州]]に有名な[[ロスアラモス研究所]]が設置される。開発総責任者は[[ロバート・オッペンハイマー]]博士。20億ドルの資金と科学者・技術者を総動員したこの国家計画の技術上の中心課題はウランの濃縮である。[[テネシー州]]オークリッジに巨大なウラン濃縮工場が建造され、2年後の[[1944年]]6月には高濃縮ウランの製造に目途がついた。
 
[[1944年]][[9月18日]]、ルーズベルト米国大統領とチャーチル英国首相は、[[ニューヨーク州]]ハイドパークで首脳会談した。内容は核に関する秘密協定([[ハイドパーク協定]])であり、日本への原子爆弾投下の意志が示され、核開発に関する米英の協力と将来の核管理についての合意がなされた。
 
前後して、ルーズベルトは原子爆弾投下の実行部隊([[第509混成部隊]])の編成を指示した。混成部隊とは陸海軍から集めて編成されたための名前である。[[1944年]][[9月1日]]に隊長を任命された[[ポール・ティベッツ]]陸軍中佐は、12月に編成を完了し([[B-29]]計14機及び部隊総員1,767人)、[[ユタ州]]の[[ウェンドバー基地]]で原子爆弾投下の秘密訓練を開始した。[[1945年]]2月には原子爆弾投下機の基地は[[テニアン島]]に決定され、部隊は[[1945年]][[5月18日]]にテニアン島に移動した。
 
前後して、ルーズベルトは原子爆弾投下の実行部隊([[第509混成部隊]])の編成を指示した。混成部隊とは陸海軍から集めて編成されたための名前である。[[1944年]][[9月1日]]に隊長を任命された[[ポール・ティベッツ]]陸軍中佐は、12月に編成を完了し([[B-29 (航空機)|B-29]]計14機及び部隊総員1,767人)、[[ユタ州]]の[[ウェンドバー基地]]で原子爆弾投下の秘密訓練を開始した。[[1945年]]2月には原子爆弾投下機の基地は[[テニアン島]]に決定され、部隊は[[1945年]][[5月18日]]にテニアン島に移動した。
 
=== 原子爆弾投下阻止の試みと挫折 ===
[[デンマーク]]の理論物理学者[[ニールス・ボーア]]は、[[1939年]][[2月7日]]、[[ウラン]]同位体の中で[[ウラン235]]が低速[[中性子]]によって[[核分裂反応|核分裂]]すると予言し、同年[[4月25日]]に核分裂の理論を米物理学会で発表した。この時点ではボーアは自分の発見が世界にもたらす影響の大きさに気づいていなかった。
[[ファイル:Niels Bohr.jpg|thumb|ボーア]]
[[1939年]][[9月1日]][[第二次世界大戦]]が勃発し、[[ナチス]]のヨーロッパ支配拡大と[[ユダヤ人]]迫害を見て、ボーアは[[1943年]]12月にイギリスへ逃れた。そこで彼は米英による[[原子力研究]]が平和利用ではなく、原子爆弾として開発が進められていることを知る。原子爆弾による世界の不安定化を怖れたボーアは、これ以後[[ソビエト連邦|ソ連]]も含めた原子力国際管理協定の必要性を米英の指導者に訴えることに尽力することになる。
[[デンマーク]]の理論物理学者[[ニールス・ボーア]]は、[[1939年]][[2月7日]]、[[ウラン]]同位体の中で[[ウラン235]]が低速[[中性子]]によって[[核分裂反応|核分裂]]すると予言し、同年[[4月25日]]に核分裂の理論を米物理学会で発表した。この時点ではボーアは自分の発見が世界にもたらす影響の大きさに気づいていなかった。
 
[[1939年]][[9月1日]][[第二次世界大戦]]が勃発し、[[ナチス]]のヨーロッパ支配拡大と[[ユダヤ人]]迫害を見て、ボーアは[[1943年]]12月にイギリスへ逃れた。そこで彼は米英による[[原子力研究]]が平和利用ではなく、原子爆弾として開発が進められていることを知る。原子爆弾による世界の不安定化を怖れたボーアは、これ以後[[ソ連]]も含めた原子力国際管理協定の必要性を米英の指導者に訴えることに尽力することになる。
 
[[1944年]][[5月16日]]にボーアはチャーチル英国首相と会談したが説得に失敗、同年[[8月26日]]にはルーズベルト米国大統領とも会談したが同様に失敗した。逆に同年[[9月18日]]の米英のハイドパーク協定(既述)では、ボーアの活動監視とソ連との接触阻止が盛り込まれてしまう。ボーアは翌[[1945年]][[4月25日]]にも科学行政官バーネバー・ブッシュと会談し説得を試みたが、ルーズベルトに彼の声が届くことはなかった。
また別の科学者の動きとしては、[[1944年]]7月にシカゴ冶金研究所の[[アーサー・コンプトン]]が発足させた[[ジェフリーズ委員会]]が原子力計画の将来について検討を行い、[[1944年]][[11月18日]]に「ニュークレオニクス要綱」をまとめ、原子力は平和利用のための開発に注力すべきで、原子爆弾として都市破壊を行うことを目的とすべきではないと提言した。しかしこの提言も生かされることはなかった。
 
[[ドイツ]]降伏後の[[1945年]][[5月28日]]には、アメリカに核開発を進言したその人である[[レオ・シラード]]が、[[ジェームズ・F・バーンズ|バーンズ]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]に原子爆弾使用の反対を訴えている。
 
[[ファイル:James Franck.jpg|thumb|フランク]]
[[1945年]][[6月11日]]には、シカゴ大学の[[ジェイムス・フランク]]が、[[グレン・シーボーグ]]、レオ・シラード、ドナルド・ヒューズ、J・C・スターンス、エウゲニー・ラビノウィッチ、J・J・ニクソンたち7名の科学者と連名で報告書「[[フランクレポート]]」を大統領諮問委員会に提出した。その中で、社会倫理的に都市への原子爆弾投下に反対し、[[砂漠]]か[[無人島]]でその威力を各国にデモンストレーションすることにより戦争終結の目的が果たせると提案したが、アメリカ政府に拒絶された。また同レポートで、[[核兵器]]の国際管理の必要性をも訴えていた。
 
更に[[1945年]][[7月17日]]にもシラードら科学者たちが連名で原子爆弾使用反対の書簡を提出したが、流れを変えることはできなかった。
# 小倉市:A級目標
このとき以下の3基準が示された<ref name="古都"/>。
* 直径3[[マイル]]を超える大きな都市地域にある重要目標であること。
* 爆風によって効果的に破壊しうむものであること。
* 来る8月まで爆撃されないままでありそうなもの。
並行して、完成した原子爆弾を部品に分けての輸送が行われた。損傷の修理のために戦列を離れていたアメリカ海軍のポートランド級重巡洋艦[[インディアナポリス (重巡洋艦)|インディアナポリス]]は、原子爆弾運搬の任務を与えられ[[1945年]][[7月16日]]に[[サンフランシスコ]]を出港し、[[7月28日]]に[[テニアン島]]に到着した。また陸軍航空隊の[[ダグラスC-54スカイマスター輸送機]]がウラン235のターゲットピースを空輸した。原子爆弾の最終組立はテニアン島の基地ですべて極秘に行われた。
 
このインディアナポリスは帰路の[[7月30日]]、[[フィリピン海]]で[[橋本以行]]海軍中佐指揮する[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[伊号第五八潜水艦]]の魚雷により撃沈されている。この潜水艦は、当時特攻兵器である[[回天]]を搭載しており、回天隊員から出撃許可が出されたが、「雷撃でやれる時は雷撃でやる」と通常魚雷で撃沈した。インディアナポリスの遭難電報は無視され、海に投げ出された乗員の多くが疲労や低体温症・サメの襲撃にあって死亡した。そのため、原子爆弾には「インディアナポリス乗員の思い出に」とチョークで記された。インディアナポリスの艦長はその後[[軍法会議]]に処せられたが、自艦を戦闘で沈められたために処罰された艦長は珍しい。戦後米軍は原爆輸送の機密漏洩を疑い、橋本潜水艦長を長く尋問したが、その襲撃は偶然であった。インディアナポリスが往路に撃沈されていれば、8月6日の広島市への原子爆弾投下は不可能となっていた。
 
=== 日本の対応 ===
その後6月末ごろから、この「V600番台」のB-29がテニアン島近海を飛行し始め、7月中旬になると日本近海まで単機もしくは2~3機の小編隊で進出しては帰投する行動を繰り返すようになったことから、これらの機体を特情部では「特殊任務機」と呼び警戒していた。しかしこれらのB-29が原爆投下任務のための部隊であったことは、原子爆弾投下後のトルーマン大統領の演説によって判明したとのことであり、「特殊任務機」の目的を事前に察知することはできなかった<ref>『大本営参謀の情報戦記』pp.256-259</ref>。
 
そもそも[[日本軍]]は当時の米国における原子爆弾開発の進捗状況をほとんど把握しておらず、およそ特情部においては「[[7月16日]]ニューメキシコ州で新しい実験が行われた」との外国通信社の記事が目についたのみであった<ref>『大本営参謀の情報戦記』p.257</ref>。もちろんこれは[[トリニティ実験]]を指した報道であったのであるが、実験直後の時点では内容は公開されておらず、当時の日本軍にその内容を知る術はなかった。それを踏まえ堀は「原爆という語はその当時かけらほどもなかった」と語っている。また特情部では、当時[[スウェーデン]]を経由して入手した米国海軍の[[M-209暗号装置]]を用いた暗号解読も進めていたが、この暗号解読作業において「nuclear」の文字列が現れたのが[[8月11日]]<ref>『大本営参謀の情報戦記』p.260</ref>のことであった。
 
当初は軍部は新爆弾投下に関する情報を国民に伏せていたが、広島や長崎を襲った爆弾の正体が原爆であると確認した軍部は報道統制を解除。11日から12日にかけて新聞各紙は広島に特派員を派遣し、広島を全滅させた新型爆弾の正体が原爆であると読者に明かした上、被爆地の写真入りで被害状況を詳細に報道した。これによりSF小説や科学雑誌等で近未来の架空兵器と紹介されていた原爆が発明され、日本が戦略核攻撃を受けた事を国民は初めて知ったのである<ref>原爆報道は戦後になって[[連合国軍最高司令官総司令部]]によって禁止されたのであるが、被爆直後の広島からの生々しいルポは、戦時中の[[プロパガンダ]]を含むにせよ資料的価値は大きい。</ref>。
8月15日終戦の日の午前の[[ラジオ]]放送で、[[仁科芳雄]]博士は原爆の解説を行った。
 
8月15日正午、戦争の終結を国民に告げる為になされたラジオ放送([[玉音放送]])で、原爆について「敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル(敵は新たに残虐な爆弾を使用して、無辜(むこ)の非戦鬪員を殺害傷害し、その悲惨な損害は本当に人間の考えの及ばない程である。)」と[[]]があった。
 
正確な犠牲者数等は[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ/SCAP)占領下では[[言論統制]]され、[[日本]]が主権を回復した[[1952年]]に初めて報道された。
 
=== 第三の原子爆弾投下準備 ===
 
== 被爆者への認識と対応 ==
[[東京地方裁判所]]は、1963年12月7日、被爆者は損害賠償請求権を持たないとして、日本へのアメリカ軍による原子爆弾投下は国際法に違反したものであり、また同時に大日本帝国の戦争責任を認め、引き継ぐ日本国が十分な救済策を執るべきは立法府及び内閣の責務であるとする判決を下し、確定した<ref>[http://www.ne.jp/asahi/hidankyo/nihon/rn_page/menu_page/side_menu_page/saiban_sosyou/tokyosaiban.htm 日本被団協「東京原爆裁判」]</ref><ref> [http://www.helpicrc.org/ihl-nat.nsf/46707c419d6bdfa24125673e00508145/aa559087dbcf1af5c1256a1c0029f14d?OpenDocument Shimoda et al. v. The State], Tokyo District Court, 7 December1963</ref>。以降、日本国内の被爆者関連の裁判において、この基本的な考え方が準用されてきた。
 
日本では広島・長崎への原爆投下の「事実」を知らない人はほとんどいない。[[社会 (教科)|社会科]]・[[地理歴史|地歴]]の教材のほか、[[国語 (教科)|国語]]の説明文など、長年[[学校教育]]で触れられてきたこと、毎夏、テレビのドキュメンタリー番組や平和式典などで報じられているので、少なくとも[[小学校]]を卒業する頃にはほとんどの児童が知っている。しかしながら、「[[核兵器]]廃絶運動に関心も参加したこともない」とする者が20代、30代の男女で23~25%あり、若年層の問題意識の希薄化が進行している<ref>[[中国新聞]][http://www.chugoku-np.co.jp/abom/01abom/yoron/yoron.html 「『原爆の日』前に全国世論調査」](2001年7月16日)</ref>。
 
世界で唯一、戦争における原子爆弾の直接被害を受けた国ではあるが、この経験は太平洋戦争終結直後から[[反米]]感情や報復意識にはつながっていない。1946年の日本での[[米国戦略爆撃調査団|アメリカ戦略爆撃調査団]]による大規模調査結果によると、広島、長崎では19%、日本全体でもわずか12% の被調査者のみが、原爆投下に対しアメリカに憎しみを感じたという。また戦後20年間の書籍、新聞、雑誌の原爆論関連の論調は、おおむね原爆の悲惨さを訴えるものが多く、アメリカへの恨みはほとんどないという<ref>[http://www.kuis.ac.jp/icci/publications/kiyo/pdfs/14/14_05.pdf 手塚千鶴子 著「日米の原爆認識」(2002年)]</ref>。すなわち太平洋戦争終結直後より、単に二度と起きてはならない[[悲劇]]と受け止める傾向が一般的に見られる。被害の惨状を伝え原爆死没者の霊を弔い被爆者の苦しみを想うことが、平和を祈念する行為であるという受け止め方が多い。
 
国の被爆者援護施策は、1957年4月の「[[原子爆弾被爆者の医療等に関する法律]]」(原爆医療法)施行より、実質的には1960年8月に「特別被爆者制度」が創設されて以降である。しかしこの被爆者援護施策は限定的で、救済されない被爆者が多く、概ね充実したのは実に1995年7月の「[[原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律]]」(被爆者援護法)の施行以降である<ref>[http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/genbaku09/17.html 「被爆者援護施策の歴史」厚生労働省]</ref>。
 
ヒロシマ・ナガサキの悲劇は、2009年現在においてもなお終結しているものとはいえない。他の兵器と原子爆弾による人的被害の決定的な相違は、強力な原爆放射線や[[放射能]]によってもたらされる難治性疾患や永続的な後遺症(晩発性疾患を含む)にあり、生き残った被爆者やその家族に現在もなお、現実的な労苦を強いるものとなっている。これは少なくとも全ての被爆者が亡くなるまで続く。さらに現在のところ公式には否定されているものの、被爆者を親に持つ子(被爆二世)さらに被爆三世への健康影響(遺伝的影響)が懸念されていることから、広島市では被爆二世への健康診断(任意検診)も開始されている。
<!--以下は節題に合致しなくなったため、コメントアウトするが、今後、新節追加・節題変更等があれば再掲載すべき記述である。
過去、広島平和祈念公園の慰霊碑にある「過ちは繰り返しませんから」の「主語問題」(誰が過ちを繰り返さないのか?)や、[[昭和天皇]]による「原爆はやむを得ない」発言<ref>1975年10月31日、日本記者クラブ主催の記者会見にて</ref>、元長崎市長の[[本島等]]の「日本軍が起こした戦争に対する当然の報い」発言<ref>[http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/2005/kiji/05/2502.html 2005年5月25日長崎新聞など。]</ref>、元防衛相の[[久間章生]]による「原爆はしょうがない」発言<ref>2007年6月30日、麗沢大講演。</ref>など枚挙にいとまがなく、被爆者やその遺族・家族団体などからの批判は絶えない。なお、[[湾岸戦争]]以降にアメリカ軍などが使用している[[劣化ウラン弾]]については、その放射能による被害があるとして、[[原水禁]]などの反戦平和団体が抗議をおこなっている(詳細は項目参照)。-->
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