「尾形乾山」の版間の差分

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==生涯==
[[ファイル:Kenzan6186.jpg|thumb|150px|乾山記念碑、京都市東山区清水寺内、1920年建立]]
[[京都]]の呉服商、雁金屋の三男として生まれ、権平と名付けられる。六歳年上の兄は[[尾形光琳]]である。[[貞享]]4年([[1687年]])父の遺言により、室町花立町・本浄華院町・鷹ヶ峰の三つの屋敷と書籍・金銀などの諸道具を、光琳と折半で譲り受けた。遊び人で派手好きで遺産を放蕩に費やした兄・光琳と対照的に、乾山は莫大な遺産が手に入っても、内省的で書物を愛し隠遁を好み、霊海・逃禅などと号して地味な生活を送った。[[元禄]]2年([[1689年]])、[[仁和寺]]の南に習静堂を構え、参禅や学問に励んだ。この仁和寺門前には[[野々村仁清]]が住んでおり、乾山は早くから[[本阿弥光悦|光悦]]の孫の光甫や[[楽焼|楽]]一入から手ほどきを受けていたこともあり、仁清から本格的に陶芸を学んだようだ。37歳の時、かねてより尾形兄弟に目をかけていた[[二条綱平]]が京の北西・[[鳴滝 (京都市右京区)|鳴滝]]泉谷の山荘を与えた為ここに窯を開く。その場所が都の北西(乾)の方角あたることから「乾山」と号し、出来上がった作品に記した。正徳2年([[1712年]])50歳のとき京都市内の二条丁子屋町(現在の二条通寺町西入北側)に移住し、多くの作品を手がけた。作風は自由闊達な絵付けや洗練された中にある素朴な味わいに特徴があり、乾山が器を作り光琳がそこに絵を描いた兄弟合作の作品も多い。享保16年([[1731年]])69歳の時、[[輪王寺]]宮公寛法親王の知遇を受け、江戸・入谷に移り住んだ。[[元文]]2年([[1737年]])9月から初冬にかけて[[下野国]][[佐野市|佐野]]で陶芸の指導を行う。その後江戸に戻り、81歳で没した。