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紀元前3千年紀の[[楔形文字]]文書は、ナガルの街が、[[レバント]]諸都市や東[[アナトリア]]の[[タウルス山脈]]方面の都市と、[[チグリス川]]上流地方など[[メソポタミア]]北部方面の諸都市を結ぶ大きな中継点だったことを物語る。ナガルからは[[1998年]]の調査で、紀元前2400年ごろに火を放たれ破壊された神殿が出土しているが、この種類の神殿としては中部メソポタミア以北ではもっとも古いものである。
 
[[ファイル:TellBrak-NE.jpg|thumb|250px|テル・ブラクNE地区の遺丘]]
紀元前3千年紀、ナガルはアッカド文化圏の辺縁の、巨大な王権の下で組織された乾燥地農業地帯に位置していた。平野部に沿って西へ行くと、文化的に独立を保っていた都市国家[[ウルケシュ]]があった<ref>[http://128.97.6.202/.../Buccellati%201996%20Seals%20of%20the%20King%20of%20Urkesh.pdf Giorgio Bucellati and Marilyn Kelly-Bucellati, "The seals of the King of Urkesh"]</ref>。[[紀元前22世紀]]、ナガルがアッカド帝国北部の行政中心地だった時期、アッカド王[[ナラム・シン]]の宮殿兼要塞が築かれた。これは王の居所というより、収集した貢物や農産物の倉庫という性格であった。発掘にあたる学者たちは、アッカド人がナガルの街を政治的に支配していたとはみなしておらず、宮殿から出土したアッカド語楔形文字で書かれた行政文書が翻訳のために公開されている。[[エブラ]]から出土した文書の中にある「ブラキゴ」(Brakigo)の街がナガル(テル・ブラク)と同一であるとすれば、ナガルとエブラが経済的・文化的に交流を活発に行っていたことになる。