「三浦半島」の版間の差分
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Diogenesis (会話 | 投稿記録) 浦賀に入港→浦賀沖に来航、久里浜に上陸 |
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[[中世]]には頼朝の挙兵に従った[[三浦氏]]の領国であった。三浦氏は[[北条時頼]]の時代に[[宝治合戦]]で宗家が滅ぼされた。以後半島の北の街道沿いは[[北条氏]]の領地となり、北条氏側に付いて三浦の家名を継承した傍系は、半島内に閉じ込められる形となった。後にこの系統は[[戦国大名]]化し、[[扇谷上杉氏]]の[[被官]]となるも、[[伊豆国|伊豆]]の[[北条早雲]]が相模国に勢力を拡大し、[[1516年]]に三浦氏を攻めるために玉縄城を築き、籠城した[[三浦義同]]・[[三浦義意]]を住吉城から新井城に攻めて滅亡させると、三浦半島は後北条氏の領地となる。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には三浦半島は後北条氏の[[水軍]]の本拠となり、東京湾を挟んで[[里見氏]]とが争う。[[里見義堯]]は水軍を率いて三浦半島を襲撃し、鎌倉まで攻めて[[北条氏綱]]と戦う。[[江戸時代]]初期は玉縄を本拠とする[[本多正信]]の領地で、[[江戸幕府]]直轄の[[天領]]であった。[[1600年]]に[[ヤン・ヨーステン]]とともに「[[リーフデ号]]」で日本に来航したイギリス人[[ウィリアム・アダムス]]は[[徳川家康]]の外交顧問となり、三浦半島に領地を貰い、日本名を三浦按針とした。
[[鎖国]]後の江戸時代には[[浦賀]]の町に[[廻船]]問屋が並び、[[徳川吉宗]]は[[遠国奉行#下田奉行・浦賀奉行|浦賀奉行]]を設置する。後期には
[[明治]]後には三浦半島は国防上の要衝地と認知される。横須賀には[[横須賀鎮守府]]が設置され、[[日露戦争]]において[[黄海海戦 (日露戦争)|黄海海戦]]や[[日本海海戦]]で旗艦として活動した[[戦艦]]「[[三笠 (戦艦)|三笠]]」の本籍地であった。この「三笠」は日露戦争後に火災で沈没し除籍となるが、保存工事が施され[[三笠公園]]に現存する。[[太平洋戦争]]の末期には、[[アメリカ軍]]の本土上陸に備えて沿岸陣地も築かれた。
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