「毛呂季光」の版間の差分

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建久6年正月に[[中条家長]]と喧嘩となり、双方の縁者が集まって合戦になりかける。頼朝は[[和田義盛]]を派遣して仲裁させ、家長を出仕停止にし、季光を御所に召して「御家人らに対して戦闘を起こし、命を失うのははなはだ穏やかではない」と直々に諭している。騒動の原因は、季光は由緒により、頼朝の門葉に準じる家柄であったが、家長が[[八田知家]]の養子である権威を誇って無礼を働いたために、季光が咎めたという。この騒動により心経絵が延期された。『[[吾妻鏡]]』での季光に関する記述は、建久6年10月に鶴岡臨時祭りで頼朝に供奉した記録が最後である。
 
子の[[毛呂季綱|季綱]]は、頼朝が[[伊豆国]]の流人であった頃、下部(しもべ)らに耐えられない事があって季綱の邸あたりに逃れていたところ、季綱がその下部たちの面倒を見て伊豆に送り返した。この事から頼朝に褒賞を受け、[[建久]]4年([[1193年]])2月10日、武蔵国和泉・勝田(埼玉県[[比企郡]][[滑川町]]和泉・[[嵐山町]]勝田)を与えられており、毛呂氏は頼朝季光の准門葉入りも、貴種性だけでなく流人時代の報恩に拠るも挙兵前から親交があったと思われる
 
== 関連項目 ==
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