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'''源頼俊('''('''みなもとのよりとし'''、生没年不詳)は[[平安時代]]後期の[[武将]]。[[清和源氏]]の一門で[[大和源氏]]の二代目。父は[[源満仲]]の次男で大和源氏の祖となる[[源頼親]]の次男[[源頼房|頼房]]。頼俊は[[陸奥国|陸奥]]守従五位下などを務めた。頼俊の子に中務権少輔[[源頼春]]がいる。
 
[[武士]]のたしなみとされた[[笠懸]]武芸の初見は[[後冷泉天皇]]期の[[1057年]]([[天喜]]5年)京都木津河畔の奈良への往還の途次において、[[藤原氏]]の警護を勤めた源頼俊の家来たちによって行われたという記録が残っている。
 
[[1067年]]([[治暦]]3年)陸奥守になった源頼俊は[[蝦夷]]征伐に赴き、[[清原貞衡]]の助勢によって、蝦夷らの支配する津軽、[[下北半島]]のあたりまで征伐を行った。その間、[[1070年]]([[延久]]2年)2月26日に記された頼俊の解状によれば、頼俊は[[陸奥国]]南部に領地のあった散位[[藤原基通]]などの梟悪之者が官物や公事を拒否した上、国印と国倉の鍵を奪うという事件が発生した。この折、朝廷の命により下野守に任ぜられた[[源義家]]の助勢によってこの争いを平定しているという事件まで起きている。ちなみに、同じ解状には「荒夷(あらえびす)が兵を発し、黎民が騒擾す」とあり、蝦夷が依然と朝廷の支配に服さぬことを記している。
 
1067年以来、清原氏の助力を以って衣曾別嶋荒夷(えぞがわけしまあらえびす)”と“閉伊七村山徒を平定し日本の東端(北端)を[[津軽海峡]]まで到達させた、この大規模な一大事業は[[1074年]](延久6年)まで行われ、後に[[延久蝦夷合戦]]といわれた。この戦では頼俊はさしたる恩賞を受けなかったが、その軍事力のほとんどを頼んでいた清原貞衡は[[鎮守府将軍]]従五位下に叙せられ、父[[清原武則|武則]]以来、二代に続く鎮守府将軍職への就任を果たしている。その後、帰京した頼俊は[[1081年]]([[永保]]元年)9月24日に御所への直訴により濫妨しようとした[[園城寺]]の僧徒らを朝廷の命により、捕らえるという武功も上げている。その後、[[1086年]]に頼俊が記したとされる前陸奥守源頼俊申文写には「前陸奥守従五位上源朝臣頼俊誠惶誠恐謹言、 …依 綸旨召進武蔵国住人平常家、伊豆国●●●散位惟房朝臣、  条条之勤不恥先蹤者也…」と記してあり、5年前に行った延久蝦夷合戦において[[豊島常家]]らの活躍を記している。