「第四次対仏大同盟」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
{{main}}, ==関連項目==
31行目:
{{main|アイラウの戦い}}
 
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は[[東プロイセン]]へ逃れ、[[カリーニヒスベルク (プロイセグラード)|ケーニヒスベルク]]を臨時首都とした。ロシアは10万の援軍を東プロイセンへ集結させた。ナポレオンは[[ポーランド]]に進軍。ポーランド人はナポレオンを祖国の解放者として熱狂的に迎え入れた。
 
1807年1月末、厳寒の中をフランス軍はケーニヒスベルクへ向けて侵攻。2月7日-8日、ロシア・プロイセン連合軍と[[アイラウの戦い]]で衝突した。吹雪の中の戦いは苦戦となり、フランス軍はロシア軍の撤退によって辛勝を得るが、両軍共におびただしい死傷者を出し決着はつかなかった。フランス軍は一旦後退し、[[フランソワ=ジョゼフ・ルフェーブル|ルフェーブル]]を指揮官として3月18日から[[ダンツィヒ]]の攻囲戦を開始し、5月27日にプロイセン軍守備隊が降伏した。