「潮田高教」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
唐棣色 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
1行目:
'''潮田高教''' ('''うしおだ たかのり'''、[[寛文]]9年([[1669年]]) - [[元禄]]16年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]([[1703年]][[3月20日]]))は[[赤穂浪士]]四十七士の一人。赤穂藩では郡奉行兼絵図奉行200石。通称は'''又之丞'''(またのじょう)
 
赤穂藩浅野家家臣の潮田作右衛門の子。[[延宝]]3年(([[1675年)]])に200石の家督を相続し、藩内では郡奉行・絵図奉行を兼任した。内蔵助[[大石良雄]]と同じく[[東軍流]]の奥村無我に剣術を習った一人でもある。また[[大石内蔵助]]の叔父[[小山良師|小山源五左衛門良師]]の娘ゆうを妻に迎えており、彼女との間に藤之助を儲けた。親戚筋に当たるため[[大石内蔵助]]の信頼が厚く内蔵助と行動を共にすることが多かった。元禄7年(([[1694年)]])の備中松山城受取にも従軍。元禄13年(([[1700年)3]])3月15日には嫡男藤之助が[[浅野内匠頭長矩]]にはじめて拝謁を許された。
 
元禄14年(([[1701年)3]])3月14日に[[浅野内匠頭]]長矩が[[吉良上野介義央]]に殿中刃傷に及んだ際には潮田高教は国許の赤穂にいた。4月19日の[[赤穂城]]開城後も藩政残務処理のため[[大石内蔵助]]良雄のもとで働き、この間家族は姉の嫁ぎ先である加西郡の豪農渡辺家に預けている。赤穂城明渡しの際に赤穂城絵図領内絵図を作成して幕府目付に提出。9月下旬には内蔵助大石から[[堀部安兵衛武庸]]ら江戸急進派を鎮撫の特命を受けて[[原惣右衛門元辰]]や[[中村勘助正辰]]、[[大高源五忠雄]]らとともに江戸へ下向するが、逆に丸め込まれて急進派になってしまう。その後、業を煮やした内蔵助大石自身の江戸下向があり、11月23日に内蔵助大石が江戸を発つ際に潮田高教もお供して、12月には京都へ帰っていった。12月9日には[[中村勘助]]正辰とともに神文血判書を提出した。、[[元禄]]15年(([[1702年)7]])7月、[[浅野大学長広]]に広島藩お預り処分が決まった後、円山会議において大石内蔵助が仇討ちを決意したので、これを江戸の同志達に伝えるべく、7月29日、[[堀部安兵衛]](武庸(円山会議出席のため上洛中だった)とともに江戸へ下向した。8月12日の隅田川舟中会議にてこれを同志達に伝えた後、9月までに[[近松勘六行重]]とともに京都へ帰った。その後、10月7日に大石内蔵助良雄にお供して江戸へ下向し、10月24日に江戸到着。大石と同じ小山屋の借家に入った。
 
槍の得意な高教は吉良邸討ち入りでは裏門隊に属して庭で戦い、本懐後、[[吉良上野介]]義央の首級を槍先に括りつけ引き揚げた、[[泉岳寺]][[浅野内匠頭]]長矩墓前にて報告後、熊本藩[[細川綱利]]の屋敷に預けられた。2月4日、細川家家臣一宮源四郎の介錯で切腹した。享年35。主君[[浅野長矩]]と同じ高輪[[泉岳寺]]に葬られた。法名は刃胸空劔信士。
 
辞世 「もののふの道とはかりを一すしに思ひ立ぬるしての旅路に」