「ミズーリ (戦艦)」の版間の差分

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イギリス海軍提督ブルース・フレーザー卿([[イギリス海軍]]太平洋艦隊司令官)は8月16日にミズーリに乗艦し、ハルゼー提督に[[大英帝国勲章]]を授与した。ミズーリは8月21日に東京に上陸する占領部隊のため200名の士官及び兵士を[[アイオワ (戦艦)|アイオワ]](USS ''Iowa'', BB-61)に移乗させた。その後8月29日に降伏調印式準備のため東京湾に入った。
 
[[大日本帝国]]の[[降伏文書]]調印式は9月2日に[[東京湾]]([[浦賀水道]]内の[[城ヶ島]]と[[館山]]の間あたりの海域)に停泊するミズーリの甲板上で行われ、[[アメリカ合衆国]]、[[イギリス]]、[[フランス]]、[[オランダ]]、[[中華民国]]、[[カナダ]]、[[ソビエト]]、[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]が調印して日本の降伏を受け入れた。全ての[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍高官がミズーリに乗艦した。[[チェスター・ニミッツ]]海軍元帥は08:00直後に乗艦した。連合軍最高司令官[[ダグラス・マッカーサー]]陸軍元帥は08:43に乗艦し、日本側全権代表団は08:56に到着した。代表団は[[重光葵]]政府全権([[外務大臣 (日本)|外務大臣]])と[[梅津美治郎]]大本営全権([[参謀総長]])、随員は参謀本部第一部長[[宮崎周一]]陸軍中将、[[終戦連絡中央事務局]]長官[[岡崎勝男]]、[[軍令部]]第一部長[[富岡定俊]]海軍少将([[豊田副武]]軍令部総長は出席拒否、次長の[[大西瀧治郎]]中将は自決)、内閣情報局第三部長[[加瀬俊一 (1925年入省)|加瀬俊一]]、大本営陸軍参謀[[永井八津次]]陸軍少将、海軍省出仕[[横山一郎]]海軍少将、終戦連絡中央事務局第三部長[[太田三郎]]、大本営海軍参謀[[柴勝男]]海軍大佐、大本営陸軍参謀[[杉田一次]]陸軍大佐であった。09:02にマッカーサー元帥がマイクの前に進み、降伏調印式は23分間にわたって世界中に放送された。式中ミズーリの甲板は2枚の[[アメリカ合衆国の国旗|星条旗]]で飾られた。1枚は[[真珠湾攻撃]]時に[[ホワイトハウス]]に飾られていた物(連邦48州の星が描かれた星条旗)、もう1枚は1853年の[[黒船来航]]で江戸湾に現れた[[マシュー・ペリー]]の艦隊が掲げていた物(連邦31州の星が描かれた星条旗)であり、90年越しの勝利として日本に屈辱を与えた。
 
マッカーサー元帥は5本のペンを取り出して交代で文章に調印し、[[コレヒドール島]]で自分に代わって指揮をとった[[ジョナサン・ウェンライト|ウェンライト]]、[[シンガポール]]で降伏した[[アーサー・パーシバル|パーシバル]]、[[ウェストポイント (ニューヨーク州)|ウェストポイント]]陸軍士官学校、[[アナポリス (メリーランド州)|アナポリス]]海軍兵学校にそれぞれ1本ずつ贈り、1本は妻のジェーンに残したという話は有名である。