「ウィリアム・ミッチェル」の版間の差分

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[[フランス]]のニースに生まれ、[[米西戦争]]に米陸軍の2等兵として従軍し、その後に陸軍通信隊に[[少尉]]として配属され、[[キューバ]]、[[フィリピン]]、[[アラスカ]]に赴任する。1909年に参謀大学校を卒業し、1915年に米陸軍航空隊の指揮官として[[航空戦]]で活躍し、1918年にサン・ミールの戦いで1500機の部隊を指揮し、ミューズ・アルゴンの戦役では200機の爆撃機を指揮した。この功績で米国だけでなく同盟国からも勲章を受ける。
 
[[第一次世界大戦]]が終結してからは陸軍航空隊副司令官に就き、[[空軍力]]の重要性や[[戦闘機]]、[[雷撃機]]、[[爆撃機]]など多種多様な航空機を揃えることを強く論じるようになり、独立[[空軍]]の創設を主張し、陸海軍の保守的な態度を「無能、職務怠慢」と痛烈に批判した。それが陸海軍の反発を買い、251925年に[[飛行船]][[シェナンドー (飛行船)|シェナンドー (ZR-1)]]墜落の責任を取る形で[[軍法会議]]にかけられ5年間の停職処分を受け。翌1926年に除隊する。
 
一年後には除隊し、その後は航空問題の啓蒙活動に携わり、[[戦略爆撃]]の効果などを論じる。死後、1946年にはその功績が認定されて[[議会名誉黄金勲章]]が授与された。
 
== 著書 ==