「御堂関白記」の版間の差分

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御堂関白記の御堂とは、藤原道長建立の[[法成寺]]無量寿院のことを指している。しかし、道長は生前、一度として[[関白]]となっておらず、御堂関白記の名称は後世付けられたものであり、正確なものではない。
 
藤原道長は、政権を獲得した[[長徳]]元年([[995年]])から日記を記し始め、何回かの中断を経た後、[[寛弘(元号)(元号)|寛弘]]元年([[1004年]])からは継続的に書き続けている。現存するものは、長徳4年([[998年]])から[[治安 (元号)|治安]]元年([[1021年]])の間の記事である。[[近衛家]]の[[陽明文庫]]が所蔵する自筆本十四巻、古写本十二巻が伝わり、[[国宝]]に指定されている。<ref>[[倉本一宏]]『藤原道長『御堂関白記』全現代語訳』上巻、「はじめに」より</ref>
 
『御堂関白記』は、意味不明な文章や、誤字・文法的誤りが多く、解釈が難しい史料である。これは同じ[[藤原摂関家]]の[[藤原忠実]]による『[[殿暦]]』、[[藤原師通|師通]]による『[[後二条師通記]]』にもいえることで、摂関家は、実務を経ずに、高位に就いてしまうため、漢文について学ばないためであろう。
 
しかし、『御堂関白記』は、当時の読み癖を窺うことができるという。例えば、「「定考」という語は、「考を定む」という意味であるから、「定考」という語順が正しく、「じょうこう」と訓むべきものであろう。ところが故実では、「上皇」に通じることを避けるために「こうじょう」と訓むものとされる。ほんまかいなという気もするのだが、『御堂関白記』では、「考定」が九例、「定考」が一例と、やはり「こうじょう」と訓むのだということがわかる。これは天皇の「譲位」に通じることを忌むために「いしょう」と訓むとされる「称唯」も同様で、「唯称」が五例、「称唯」が三例と、「唯称」と記すことの方が多い。このように、当時の読み癖がわかるという点で、『御堂関白記』は貴重な史料となっているのである。同様に、人名の訓み方についても、「この人、なんて訓むのだろう」という場合にも、しばしば『御堂関白記』は聞いたとおりに簡単な字で記してくれる」という。<ref>[[倉本一宏]]『藤原道長『御堂関白記』全現代語訳』下巻、「あとがき」より</ref>
 
また、道長が『御堂関白記』を記した契機として、「子供に対する意識」があったためであったという。「政所政治論が否定されて久しく、道長も王権の一員として、公卿層との相互依存と太政官政治を軸として政務を運用していたということは、言うまでもない。しかしながら、自分の子女をめぐっては、いささか強引な決定を行なうことがあったこともまた、蔽うべくもない事実であろう。特に、女の入内や立后がからむと、強引な手段も辞さないことがしばしばであった。ただし、天皇家とのミウチ関係の構築のみが、政権を子孫に継承させ、また貴族社会を安定させる要因であったことを思えば、当然の政治的選択肢だったのである。しかしそれにしても、若年時の頼通や教通の昇進や勅使に際しての対応は、単なる政治的な思惑を越えた「親馬鹿ちゃんりん」にも思えてくる。『御堂関白記』の記述を再開した契機というのも、彰子の入内や、頼通の春日祭使なのであった」という。<ref>(2)と同様。</ref>
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同時代の貴族が記した日記、『[[小右記』]]』([[藤原実資]])、『[[権記』]]』([[藤原行成]])とともに、当時の貴族社会を知る上で、重要な意味を持つ史料である。
 
最近、[[倉本一宏]]によって『藤原道長『御堂関白記』全現代語訳』が出版された。
 
== 脚注 ==