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'''佐藤勝巳'''(さとう かつみ、[[1929年]][[3月5日]] - )は[[日本]]の[[評論家]]、[[雑誌]][[編集者]]、[[人権]]活動家。「[[北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会]](救う会)」前会長。[[現代コリア研究所]]所長。
 
== 略歴 ==
[[新潟県]]出身。元[[日本共産党]]員。旧制中学を卒業後、[[新潟県立巻高等学校]]を中退し、[[川崎汽船]]に勤務するが、[[1950年]]、[[労働組合]]専従だったために[[レッドパージ]]を受け失職。[[在日朝鮮人の帰還事業]]に参加し、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]から2度([[1962年]]11月10日、[[1964年]]9月23日)にわたり勲章(「朝鮮民主主義人民共和国赤十字栄誉徽章」)を授与される。在日韓国・朝鮮人差別反対運動にも大きくかかわった。
 
その後、[[北朝鮮人権問題 |北朝鮮の実態]]に失望し、日本共産党を脱党、反北朝鮮的立場へと[[転向]]した。在日朝鮮人帰国支援活動が「在日の人達を『楽園』どころか地獄に送ることになってしまった」ことが転向のきっかけであると[[正論 (雑誌)|正論]][[1995年]]9月号「わが痛恨の朝鮮半島」で述べている。[[北朝鮮による日本人拉致問題|北朝鮮に拉致された日本人の救出運動]]に乗り出したが、一方で自らが[[脱北者|北朝鮮へ送り出した人々の支援救出運動]]にはかかわらなかった。存在しないとされていた拉致事件と被害者が北朝鮮から帰って来た事に対して「救う会」会長としてどう思っているのか?とのTV局の質問に対して、暫く押し黙った後に「拉致事件を報道してくれたのはニシ(2紙または2誌)だけでした」とだけ答えた。
 
*[[1957年]]、[[新潟市]]で[[民主商工会]]活動に参加。