「ムラービト朝」の版間の差分

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== ムラービト朝の衰退と滅亡 ==
しかしユースフが亡くなると、これを継いだアリー・イブン・ユースフ(在位:[[1107年]] - [[1142年]])は、父王の在世中に政治にも携わっていたことから、将来を嘱望されていたが、[[セウタ]]で生まれアンダルシアのイスラム文化に染まっていた彼には、父王のような指導力はなく、法学者たちに利用され、祈りと読書に部屋にこもりがちになった。強力な指導者のいないムラービト軍は、[[1118年]]にアラゴン王国にサラゴサを奪われ、カスティーリャの[[アルフォンソ7世]]にも遠征軍を送られて、後退を余儀なくされていた。この情勢で、最初は、ムラービト朝の支配を歓迎したアンダルシアのイスラム教徒住民も、ムラービト軍の暴行や文化の無理解に嫌気が差していたため、不満が爆発、反ムラービト運動が起こり、コルドバ、ムルシア、バレンシアで反乱が起こった。またモロッコ国内でもムワッヒド運動が起こっており、アンダルシアのイスラム諸侯国は、ムワッヒド勢力と通じるようになり、ターシュフィーン・イブン・アリー(在位:[[1142年]] - [[1146年]])、次いでイスハーク(在位:[[1146年]] - [[1147年]])の時、首都マラケシュは陥落し、ついに[[1147年]]、[[ムワッヒド朝]]に滅ぼされた。
 
== 文化 ==