「朴憲永」の版間の差分

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[[甲山派]]を除く国内系共産主義者たち、とりわけ朴憲永に代表される南朝鮮労働党系(以下、南労党派)と、金日成派(満州派)とは長く対立していた。[[朝鮮戦争]]が事実上、中国人民義勇軍司令官・[[彭徳懐]]の指揮によって遂行されたことで金日成は国内の政敵に集中できる環境にいた。朝鮮戦争が膠着状態に陥ったころから、金日成は党の掌握に専念し、政敵の追い落としを準備していたと考えられている。
 
朝鮮戦争が失敗に終わると、その責任を巡って南労党派と[[満州派 (朝鮮労働党)|満州派]](金日成派)との対立が激化した。朴憲永を押し立てた南労党派は組織的に金日成に挑戦した。[[1953年]]の初頭に南労党派は[[クーデター]]を企てたとされている<ref>徐大粛『金日成』林茂訳、御茶の水書房、1992年、147頁。クーデタ計画が実際にあったのかどうか、真偽のほどは明らかではない。ただし、戦争の混乱のなかで南労党派が自前の遊撃隊を組織しはじめていたのはたしかである。</ref>。朴憲永以下南労党派はクーデタ容疑で一斉に逮捕された。同[[1953年]]8月には大々的な見せしめ裁判が展開された。ところが、[[李承ヨプ (政治家)|李承燁]]・[[李康国]]・[[林和]]・[[裵哲]]ら南労党派の有力者が問われたのはクーデタ未遂容疑ではなかった。彼らは、「米帝の[[スパイ]]」「政権転覆・南労党派のクーデター陰謀」「戦時50万蜂起流言飛語」という名分のもと、朝鮮戦争を失敗に導いたことを罪状として処刑された<ref>[[小此木政夫]](編著)『北朝鮮ハンドブック』講談社、1997年、148-149頁。このとき、[[延安派]](延安で中国共産党員として活動した朝鮮人たち)の有力者で、名高い軍人であった[[武亭]]も戦争の失敗の責任をとらされて追放された。</ref>。
 
朴憲永だけが他の被告と分離され、裁判も遅れて開始され、[[1955年]][[12月15日]]に死刑判決を受けてまもなく処刑された(処刑の日時は不明)。容疑は[[1919年]]([[三・一独立運動]])から「米帝の廻しもの」になり、植民地時代からスパイ活動を行い、解放後は南半部で意図的に無謀な[[デモ行進|デモ]]や[[ストライキ]]を組織して多数の共産主義者を殺戮し、ついには北朝鮮政府の転覆を狙ったという、他の被告に対するものにもましてばかげた内容であった。朴憲永はこれらの容疑をすべて認めた。彼の訴追が遅れたのは、これらの容疑を認めさせるのに時間がかかったのであろうと考えられている。