「大和古墳群」の版間の差分

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== 主な古墳 ==
大和古墳群中最大の規模を有し、「大王墓クラス」とみられているのが上述の[[西殿塚古墳]]である。現在、[[手白香皇女]]陵に治定されており、[[宮内庁]]が管理しているために、一般国民はもちろん研究者も許可なく自由に立ち入ることはできない。なお、治定が決定したのは[[1876年]]([[明治]]9年)のことであり、[[手白香皇女]]([[継体天皇]]皇后)は[[6世紀]]前半から中ごろにかけての女性である。しかし、古墳の推定年代は[[3世紀]]後半から[[4世紀]]前半にかけての時期であり、初期の[[ヤマト王権]]の王墓と考えられている。
 
西殿塚古墳の近傍には全長175メートルに達する[[東殿塚古墳]]がある。西殿塚古墳とともに萱生古墳支群に属し、4世紀初頭の造営と考えられる。
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それ以外には、100メートルから140メートル級の7基の[[前方後円墳]]、および3基の[[前方後方墳]]がある。
 
[[1986年]]に[[吉備政権]]の要素の濃い[[特殊器台・特殊壺|特殊器台]]の破片が発見されたことによって、古墳発生期までさかのぼる可能性の指摘された[[中山大塚古墳]](120メートル、県史跡)があり、[[1993年]]には後円部に[[竪穴式石室]]が造営されていたことが分かった。この石室には、主として輝石安山岩([[サヌカイト]])と推定される板石が用いられている。[[下池山古墳]]もまた奈良県の史跡に指定されている。
 
上述の手白香皇女の真墓でないかとみなされているのが、本古墳群に属する[[西山塚古墳]]である。古墳時代前期の古墳が多い本古墳群のなかで、西山塚古墳のみが[[6世紀]]前半ころの造営によるものである。
[[下池山古墳]]もまた奈良県の史跡に指定されている。
 
== 関連項目 ==