「門葉」の版間の差分

ちなみに、最初に認められた6人は、頼朝と[[源義経]]の仲が険悪化する以前に推挙されていた。そして、除目が発表された時には頼朝と義経の仲は険悪化しており、義経は事実上御門葉とは認めなかった。この門葉の顔ぶれを見る限り、門葉たる地位を付与されるためには、血筋上の[[嫡流|嫡]][[庶流|庶]]や頼朝の血筋との近接性はあまり問題ではなく、あくまで忠勤の目覚ましい清和源氏であることがその要件であったということができる。
 
実弟である[[源範頼]]、[[阿野全成]]そして義経らはこれに含まれず、頼朝と比較的血筋の近い[[河内源氏]]のうちでも新田氏の庶子の[[山名義範]]や[[足利義兼]]に限られ、逆に、頼朝の4代前の祖先 [[源義家]]の弟・[[源義光]]を祖先とする[[平賀義信]]や[[甲斐源氏]]の[[加賀美遠光]]、[[安田義]]、また6代前の祖先 [[河内源氏]]の祖・[[源頼信]]の兄・[[源頼光]]を祖先とする[[摂津源氏]]の[[源綱]]([[源頼政]]の)など限りなく遠縁の者が門葉に列していることが確認できる。
 
平賀義信は[[元暦]][[文治]]頃の幕府席次において門葉筆頭ともいえる座を占めていることが確認できるが、これも[[源義朝]]・頼朝親子への忠勤を認められたためと推定されている<ref>[[本郷和人]]『新・中世王権論―武門の覇者の系譜』新人物往来社、2004、ISBN 4404032285</ref>。
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