「李亨根」の版間の差分

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| 戦功 =
| 賞罰 =
| 除隊後 = 駐英国大使・駐スウェーデン大使・駐デンマーク大使・駐ノルウェー大使・駐フィリピン大使 / 予備役陸軍大将 / 韓国反共連盟理事 / 世界反共連盟理事長 /[[朴 正煕]]元大統領内閣の行政改革委員長 / [[全 斗煥]]元大統領内閣の国政顧問 / 星友会(将軍級軍人会)会長 / 国土統一顧問 
| 廟 =
| 生誕地 =[[ファイル:Merchant flag of Japan (1870).svg|25px]] ([[日帝時代]]) [[忠清道]] [[公州市]]
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李甲の支援により普成中学校と大韓帝国武官学校を卒業した後、[[1909年]]に日本へ留学し、[[陸軍幼年学校|陸軍中央幼年学校]]を経て、[[1914年]]に陸軍士官学校(第26期)を卒業し、[[少尉]]に任官した。同期には[[栗林忠道]]、[[洪思翊]]、[[池青天]]などがいる。
 
終戦後,優秀な軍事経験と卓越だった英語実力を土台として[[1945年]][[12月5日]] [[軍事英語学校]]の入学を米軍政庁から免除されることと同時に [[1946年]][[1月15日]] 初代朝鮮警備士官学校(現陸軍士官学校)校長に任官することに至った<ref >姜ジュンマン,韓国現代史散歩 1940年代の方 1冊 196ページ 頁。</ref >。 将軍は大韓民国国軍の象徴である「軍番 1番」で有名だが,当時軍番は入所先着順 1番目を意味したと歪曲をする一部の意見もあった。しかし、事実上李亨根は当時東京に位していた [[GHQ]],すなわちマッカーサー司令部が軍事経歴と色々資料を土台の基にして「軍番1番」を受けるようになった事実が明かされた。
 
[[十月革命]]が起きた翌年の[[1918年]]に、日本軍は[[シベリア]]地域で反革命軍を支援した。同地域の赤化を阻むために出兵([[シベリア出兵]])し、李も[[中尉]]として出征命令を受け、[[ウラジオストク]]に派遣された。
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[[2008年]]に[[民族問題研究所]]が発表した、[[親日派リスト|親日人名辞書収録予定者]]名簿の軍部門に選定された。2007年に[[親日反民族行為真相糾明委員会]]が選定した親日反民族行為195人名簿の軍人部門にも選定され、公式に[[親日反民族行為者]]に認定されている。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
{{先代次代|大韓民国陸軍参謀総長|初:1948.12.15 - 1949.5.8|―|[[蔡秉徳]]}}