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{{出典の明記|date=2008年10月}}
'''レイモン・オブラック''' ('''{{lang|fr|Raymond Aubrac}}'''、本名'''{{lang|fr|Raymond Samuel}}'''<ref>http://www.bouches-du-rhone.pref.gouv.fr/frameset.php</ref>、[[1914年]]7月31日 - )はフランスの[[レジスタンス運動]]活動家。1939年、[[ヴォージュ]]で[[ドイツ]]軍に敗れて[[捕虜]]となり、[[サルブル]]の[[刑務所]]に入れられる。
8月に脱獄に成功して、[[ヴィシー政権]]下の[[リヨン]]に向かう。
 
[[リベラシオン]]という[[新聞]]の発行を計画し、紙や印刷所を主にイタリア軍占領地域で探索し、[[マルセイユ]]や[[モンペリエ]]に情報を発信する。
 
[[リベラシオン・シュド]]というレジスタンス運動体の形成に参画。1943年3月15日にリヨンで[[フランス]]の[[刑事]]に捕まるも、[[予審]][[判事]]の裁量によって、[[裁判]]が行われるまで[[釈放]]される。一説ではこのときジャン・ムーラン等の情報を[[政府]]当局に提供したとされる。1943年6月初旬、リヨン郊外のカリュイールで[[ゲシュタポ]]に逮捕され、[[フォール・モンルック]] ({{lang|fr|Fort Montluc}}) 刑務所で4ヶ月間繰り返し[[拷問]]される。1943年9月21日、貴族の格好をしたリュシーと面会し、[[結婚]]の[[契約]]を交わす。
 
1943年10月21日、獄中で結婚を認められた妻のリュシーが仲間とともにドイツ軍の移送車を襲撃し、このとき13人の活動家ともにレーモン・オブラックも解放された。
1944年2月15日に[[アルジェリア]]に向かい、フランス[[政府]]を代表する行政府の再建に従事する。後に[[マーンハム]]によってジャン・ムーランの逮捕に係わったとして激しく非難される。
 
== 脚注 ==
<references/>
 
==関連項目==
*[[リュシー・オブラック]]
*[[コラボラシオン]]
*[[ナチズム]]
*[[ナチス]]
 
 
*祖国フランスを救え~レジスタンスに賭けた青春~
 
{{DEFAULTSORT:おふらつく れもん}}
[[Category:フランスの人物]]
[[Category:レジスタンス運動]]
[[Category:1914年生]]
 
[[de:Raymond Aubrac]]