「ウメ子」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== タイ王国から小田原へ ===
戦後復興の最中だった{{和暦|1950}}、市制が施行されて10周年となる[[小田原市]]が「小田原こども文化博覧会」を開催した際に、[[タイ王国]]から呼んだ。
 
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来日時の大きさは体長約1.2m、体重約450kg。[[2007年]]には鼻や尾を除き体長3m、体重3tに成長していた。また、1日60kgほどのえさを食べていた(東京新聞 2007年9月19日)。当時はさまざまな芸当を披露していた。
 
=== 苦難と事故を乗り越えて ===
{{和暦|1981}}1月15日、見物客とウメ子の間を隔てる空堀に落下。1時間半かけて引き揚げられた。これは、お客さんがエサをあげようとしてウメ子がめいっぱい鼻を伸ばした際に足をすべらせてしまったものである。1957年ごろと1960年代にもウメ子は同様に空堀に転落したことがある。
なお、当初の放飼場は、ウメ子が鼻を伸ばせばお客さんのところまで届き、エサを受け取れるほどの距離であった。1967年、毎日新聞の投書欄に一般市民から「酔漢が手を伸ばし、ウメ子の鼻と戯れている」写真が投稿され「危険なので柵の距離をもっと後退させたらどうだろうか」との意見が載ったりもした。このため1970年代中ごろに、柵の位置を後退させ、運動場外側の壁をやや高くする措置がとられている。また1970年代までプールの壁がとりはらわれ、ウメ子が堀に降りてこられるようになっていた。ウメ子は堀の下に落ちたエサ(お客さんが投げ入れたお菓子やみかん等)をひろって食べていた(飼育員談)。
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この事故をめぐって翌年、遺族が「小田原動物園には飼育マニュアルが作成されておらず、安全管理に不備があった」として小田原市を相手取り、慰謝料などをもとめる裁判を起こした。小田原市側は「文書化されたマニュアルは作成していなかったが、口頭で危険な点等の注意すべき点は伝えていた。ゾウの飼育には必ずベテランと一緒に作業させていた」と反論した。この裁判は後に小田原市と遺族の間で和解が成立している。
 
=== 還暦、最期とその後 ===
2000年に開園50周年とウメ子来園50周年、そして長寿を祝うお祝いが開かれた。{{和暦|2007}}は推定年齢3年と来日57年を合わせて60歳の還暦が祝われ、10月16日から25日にかけては写真や応募のメッセージ展示、10月20日は[[食パン]]や[[バナナ]]で作った[[バースデーケーキ]]贈呈が行われた。ちなみに55歳の誕生日(2005年)には[[おから]]で作ったケーキが贈られている。
 
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{{和暦|2009}}10月17日には「お別れの会」が主のいなくなった[[ゾウ]]舎前で行われ、高さ3m、幅約2.4mの等身大遺影が飾られ、[[加藤憲一]]小田原市長が追悼の言葉と共に、市民功労賞特別賞を贈呈した。式には約5000人が出席、銅門前広場や郷土資料館で追悼メッセージや古い写真、記念品などが展示された。ゾウをかたどった、[[小田原]]名産の[[かまぼこ]]なども特別販売された。
 
2010年3月25日に、ウメ子に感謝の意を込めて、神奈川県内や新宿等、130130の郵便局で「ウメ子オリジナル切手シート」が限定15001,500枚販売されることになった。一シート12001,200円。
 
== エピソード ==
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{{DEFAULTSORT:うめこ}}
[[Category:小田原市の歴史]]
[[Category:著名な象]]
[[Category:1947年生]]