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{{世界の市
|正式名称 =コプリニツァ
|公用語名称 =Koprivnica
|愛称 =
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|備考 =
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{{location map|Croatia|label=コプリニツァ|lat=46.16|long=16.83}}
 
'''コプリニツァ'''({{lang-hr|Koprivnica}},{{lang-hu|Kapronca}},{{lang-de|Kopreinitz}})は[[クロアチア]]北部[[コプリヴニツァ=クリジェヴツィ郡]]の都市及び基礎自治体。[[2001年]]現在の人口は30,994人で、コプリヴニツァ=クリジェヴツィ郡の郡都である。
 
== 地勢 ==
コプリニツァはビロゴラ(Bilogora)の南側の傾斜地で、北側には[[ドラーヴァ川]]が流れる。歴史的に戦略的な地域で、地理的な条件から交易や手工業、行政府の中心など開発が進められ、[[13世紀]]より町として確立している。コプリニツァの地名は同名の小川の名称に因んでおり、13世紀の[[ハンガリー王国]]の文書に初めて言及された。
 
== 歴史 ==
コプリニツァの名が最初に現れたのは[[1207年]]のことで、[[1272年]]に初めて[[ラースロー4世]]の文書に記録されている。[[1356年]]、[[ラヨシュ1世]]によって[[帝国自由都市]]の宣言がなされ、交易や交通の要衝として繁栄した。[[14世紀]]、[[ヴァラジュディン]]の影響によって町はさらに発展し開発が進んだ。この間要塞が築城され、[[16世紀]]後半まで[[ハプスブルク家|ハプスブルク]]と[[オスマン帝国]]の[[軍事境界線 (ハンガリー)|軍事境界線]]があることから軍事的な中心でもあり、人々の生活や経済にも影響を与えた。16世紀、[[17世紀]]を通じて帝国自由都市の権利は維持され、経済的には17世紀初めより[[鍛冶屋]]や鍵、馬具製造、宝石などの[[ギルド]]が存在し、交易を基盤としたスラヴォニアでは経済的に進んだ地域とされていた。また、17世紀後半には多くの[[カトリック]]教会が設立されている。経済活動は城壁の外にも広がり、今日までの町を形成する通りなども整備されている。カトリック教区の図書館もこの時期設立され、[[ラテン語]]や[[ドイツ語]]の書物が所蔵されていた。
 
[[19世紀]]に入ると、これまでの古い[[ルネサンス建築]]や[[バロック]]様式の建築物は現在まで続く新しい建築物に置き換えられていった。[[1863年]]新たに中心となる公園が計画され、これまであった城壁は取り除かれることになった。また、[[ザグレブ]]と[[ブダペスト]]を結ぶ鉄道が計画され[[1869年]]から[[1870年]]に開通した。この時期、町は大きく近代化が進んでいる。経済的にも発展が継続され、郊外の開発も進み工業などが発展して行く。教育機関の整備も進み、[[20世紀]]初めにかけ技術校や高校などが開設された。