「ニコライ・シュヴェルニク」の版間の差分

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|image = NikolayShvernik.jpg
|caption =
|order = ソビエト連邦{{SSR1923}}[[最高会議幹部会議長]]
|term_start = [[1946年]][[3月19日]]
|term_end = [[1953年]][[3月15日]]
|predecessor = [[ミハイル・カリーニン]]
|successor = [[クリメント・ヴォロシーロフ]]
 
|birth_date = {{birth date|1888|5|7|mf=y}}
|birth_place = {{RUS1883}}・[[サンクトペテルブルク]]
|death_date = {{death date and age|1970|12|24|1888|5|7|mf=y}}
|death_place = {{SSR1923}}・[[モスクワ]]
|nationality = [[ロシア人]]
|party = [[ロシア社会民主労働党]]<br />ロシア共産党([[ボリシェヴィキ]]派)<br />[[ソビエト連邦共産党]]
}}
 
'''ニコライ・ミハイロヴィチ・シュヴェルニク'''('''Никола́й Миха́йлович Шве́рник''', Nikolai Mikhailovich Shvernik, [[ユリウス暦]][[1888年]][[5月7日]]([[グレゴリオ暦]][[5月19日]]) - [[1970年]][[12月24日]])は、[[ソビエト連邦]]の[[政治家]]。ソ連[[最高会議幹部会議長]]を務めた(在任期間は、[[1946年]][[53月19日]]から[[1953年]][[53月15日]]まで)。
 
== 生涯 ==
[[1888年]]、サンクトペテルブルクに生まれる。[[1905年]]に[[ロシア社会民主労働党]]に入党。のち同党が[[ボリシェヴィキ]]と[[メンシェヴィキ]]に入党分裂すると、ボリシェヴィキ側に付いた[[ロシア革命]]後の[[1924年]]、[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]の[[人民委員]]に就任し、翌[[1925年]]には[[ソビエト連邦共産党中央委員会|党中央委員]]に選出された。[[1927年]]に[[ウラル地方]]の党書記に降格されるが、[[ヨシフ・スターリン]]の[[五カ年計画]]に基づく重工業化に対する熱心な唱道者であったため、政治的に復権を果たした。[[1929年]]に[[モスクワ]]に戻り、冶金労働者組合議長に就任し、共産党組織局員兼書記に選出された。[[1930年]]全ソ労組中央評議会第一書記に就任し、[[1944年]]までこの地位にいた。[[1939年]]には[[ソ連共産党政治局]]員候補に選出された。
 
[[1929年]]に[[モスクワ]]に戻り、冶金労働者組合議長に就任、共産党組織局員兼書記に選出された。[[1930年]]全ソ労組中央評議会第一書記に就任し、[[1944年]]までこの地位にいた。[[1939年]]には[[ソ連共産党政治局|ソ連共産党政治局員]]候補に選出された。
 
[[第二次世界大戦]]中、シュヴェルニクはおもに[[ヨーロッパ・ロシア]]の産業を[[ナチス・ドイツ]]の侵攻から[[ウラル]]以東に疎開させる役割を担った。戦後の[[1946年]]、[[ミハイル・カリーニン]]の跡を引継いでソ連の[[国家元首]]に相当する最高会議幹部会議長に選出された。[[1952年]]党幹部会員(政治局員)に昇格するが、翌[[1953年]]スターリンの死後、幹部会員候補に降格されている。