「京極忠高」の版間の差分

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慶長19年(1614年)の[[大坂の役|大坂の陣]]では徳川方として参戦し、冬の陣での講和は、義母の[[常高院]]を仲介として京極忠高の陣において行われる。また、講和条件の[[大阪城]]の外堀を埋める作業の工事奉行となった。寛永元年([[1624年]])には[[越前国]][[敦賀郡]]が加増された。
 
寛永11年([[1634年]])には、毛利家に対する押さえとして、京極氏が室町時代に代々[[守護]]をつとめていた[[出雲国]]、[[隠岐国]]二カ国へ加増転封となり、合計26万石を所有し、さらに[[石見国|石見]]の[[石見銀山]]も当てられる。ちなみに戦国期に[[毛利氏]]と石見銀山などをめぐり死闘を繰り広げた[[尼子氏]]は、[[京極氏]]のもとで出雲の[[守護代]]を勤めている。関ヶ原の戦い時にも京極氏と毛利氏は激闘しており、父高次は[[末次元康]]の猛攻を[[大津城]]で防いでいる。この大幅な加増転封は明らかに毛利家への押さえとしての配置と考えられている。それだけ徳川家の京極家への信頼は厚いものであった。
 
さらに将軍家姻戚として優遇された京極家だったが、正室・初姫との夫婦仲はよくなかったとみられる。寛永7年([[1630年]])に初姫が死去した際は、忠高は臨終に立ち会うこともなく[[相撲]]見物に興じていたと伝えられる。このため舅である[[大御所 (江戸時代)|大御所]]・秀忠の怒りを買い、初姫の葬儀は秀忠により徳川家所縁の小石川の伝通院にてとり行われ、忠高をはじめ京極家関係者は葬儀への臨席を許可されなかった。