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{{改名提案|戚夫人|date=2010年6月}}
'''戚
紀元前208年頃、[[楚漢戦争]]中に[[劉邦]]に見初められ、その寵愛を一身に受け、[[劉如意]]を生む。その影響で、[[代]]王、次いで[[趙]]王に封建された息子・如意も有力な[[皇太子]]候補と目されるようになる。さらに彼女は、劉邦(高祖)が親征を行う度にこれに随い、度々、如意を皇太子に立てるように懇望する。
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しかし、このことから戚夫人母子は盈の生母である[[呂雉]]より憎まれることとなり、紀元前195年に高祖が死に、盈が即位(恵帝)すると、[[皇太后]]となった呂雉による陰惨極まる復讐劇が始まる。
先ず、戚夫人を捕らえて永巷(えいこう
<!--但し、この記述は呂雉の[[史書]]に記述されていただけなので実際にこのようなことを行っていたかどうか疑問点があると言われている。また、戚夫人の人物評に関しては陳瞬臣氏は『妖のある話』にて呂后の残虐行為は実際には疑わしく、惨殺し、死体を陵辱したのではと好意的。呂后寄りの発言で残虐行為を正当化する山崎純一氏と対照的。←出典があるのでしょうか?ないのならこのような憶測は不要です-->
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[[Category:漢代の人物]]
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