「貴族」の版間の差分

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[[平安時代]]初期の議政官をみると、藤原氏のほか、[[源氏]]、[[橘氏]]、[[清原氏]]、[[菅原氏]]などのように、[[奈良時代]]にはみられなかった氏族が急速に台頭していた。880年ごろには議政官氏族の多様性が失われ、藤原氏・源氏が議政官のほとんどを占めるようになった。藤原氏は、[[摂政]]・[[関白]]の地位を獲得し、それを世襲することに成功した。以降、10世紀から11世紀にかけて、藤原氏嫡流([[摂関家]])は、天皇の外戚、すなわち、身内として代々摂関となって貴族社会の頂点に位置し、[[10世紀]]から[[11世紀]]にかけて[[摂関政治]]と呼ばれる政治形態を布いた。ただし、通俗的な理解とは異なり、摂関家は専横的に権力を振るったわけではない。摂関といえど独裁的な国政決定を行なうことはできず、重要な国政決定はすべて[[陣定]]などの公卿会議を通じて行なわれていたのである。
 
9世紀後半から10世紀にかけての時期に上流貴族が藤原氏・源にほぼ限定されると、他氏族は中下流貴族として存続する道を模索し始めた。10世紀初頭、[[王朝国家]]体制への移行に伴い、律令機構や権能を特定者へ請け負わせる[[官司請負制|官司請負]]が行なわれ始めたが、機構・権能の請負いに成功した中下流貴族は、その機構・権能を[[家業]]と位置づけ、それを世襲する[[家業の継承]]を行なうようになった。例えば、武芸・軍事を家業とする中下流貴族は「兵(つわもの)の家」と呼ばれ、押領・追捕・追討活動に従事する[[軍事貴族]]となり、[[武士]]の母体となっている。この官司請負と家業の継承は、11世紀以降、貴族社会に広くみられるようになり、中下流貴族は家業の継承や[[受領]]職の獲得などにより生き残りを図ったのである。家業の継承を通じて、家産(家の財産)の蓄積が進み、貴族社会に「家」概念が登場することになった。
 
摂関政治、官司請負、家業の継承が始まった10世紀前半は、その後の貴族社会において最重要事項とされた朝廷儀式・宗教儀式の標準作法が形成された時期でもある。非常に多数の年中行事からなる儀式は細部まで作法・様式が決められており、儀式を滞りなく執り行うため、『[[西宮記]]』、『[[北山抄]]』などの儀式書も作られた。
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