「帝国自由都市」の版間の差分

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この帝国自由都市の存在は、所領の[[農奴]]が逃亡して労働力が失われるなど、各地の領邦君主にとって望ましくない存在であった。また、領邦君主が自らの権力強化を図るのであれば、都市に蓄積されている富を狙わない手はなかった。16世紀より、[[宗教改革]]の波に乗じて、領邦君主は[[アウクスブルクの宗教和議]]を通じて[[領邦教会体制]]を確立させた。これにより所領内の教会を統制下におき集権化を進め、さらに各都市への統制強化を図った。多くの都市はこうして領邦君主の統制下におかれ、[[自治]]権の多くを剥奪された。1648年の[[ヴェストファーレン条約]]で領邦[[主権]]が確認されたことも、この動きを加速させた。
 
さらに、[[ナポレオン戦争]]においてドイツが占領されると、ナポレオン政権下での行政区再編にともなって、[[ブレーメン]]、[[ハンブルク]]、[[フランクフルト・アム・マイン]]、[[リューベック]]の4都市以外は帝国自由都市としての地位を失った。ナポレオンの失脚後に[[ドイツ連邦]]が発足するが、この連邦は35の邦国(発足当初は34)と上記の4帝国自由都市によって構成されていた。この4都市のうち、ブレーメンとハンブルクは、現在の[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]において独立した[[連邦州]]として扱われ、今でもそれぞれ「自由ハンザ都市ブレーメン」「自由ハンザ都市ハンブルク」を正式名称としている。
 
==帝国自由都市のリスト==