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TIGERMANIA (会話 | 投稿記録)
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== 略歴 ==
戸籍名は「盛仁」で、登録ミスだという<ref>アルバム「HOWLING WOLF」ライナーノーツより引用。</ref>。沖縄県[[中頭郡]][[美里村 (沖縄県)|美里村]]の東恩納地区(現[[うるま市]])の農家に育つ。7歳ごろから手製の三線に親しみ、[[毛遊び]]を覗き見て民謡を覚え、11歳にして既に[[カチャーシー]]をマスターしたという。学校にはほとんど通わず8歳で喫煙、9歳で飲酒を始める。敗戦後は[[在日米軍|米軍]][[軍事基地|基地]]で下働きをする傍ら、物資の横流しで稼いだ<ref>16歳で2階建ての家を建てたが、賭博で全財産を失ったという。</ref>という。
 
16歳のとき、沖縄[[芝居]]の松劇団に加わり、地方(地謡)を始める。ここでベテランの板良敷朝賢に三線を徹底的に仕込まれ、徐々に頭角を現した。[[琉球放送]]の人気[[ラジオ]]番組「素人ノド自慢大会」で[[嘉手苅林昌]]と共に優勝。カチャーシーの名人として評判になり、[[1955年]]ごろからは芝居の舞台にソロで立つ、初の「民謡歌手」となった。以後、各地で演奏活動を続け、[[喜納昌永]]・[[津波恒徳]]とのトリオなどでも人気を博した。民謡中心の舞台である民謡ショーを確立する一方でレコーディングも重ね、第一人者としての地位を固めていく。[[1957年|57年]]に[[小浜守栄]]や喜納らが設立し、[[1963年|63年]]に再編された琉球民謡協会の執行部には最年少で名を連ねた。また[[1956年|56年]]、[[知名定男]]を素人のど自慢大会で見出し「天才少年」として育て上げた。
 
「豊節」「戦後の嘆き」「新デンサー節」「[[緑の沖縄]]」など[[作詞]]・[[作曲]]多数。歌詞は一貫して[[沖縄方言|ウチナーグチ]]にこだわる。楽器の工夫にも熱心で、三線の弦を2本ずつ6本にした六線やエレキ四味線(よみせん)を開発したり、[[ダンス|舞踊]]に用いられていた打楽器・[[三板]]を改良して民謡に取り入れた(後に日本三板協会<ref>2010年6月、[[普天間基地代替施設移設問題|普天間基地移設問題]]に反発し「沖縄三板協会」と改称した。</ref>特別顧問となる)。また三線の楽譜である[[工工四]]に声楽譜を加えた「民謡端節舞踊曲集工工四」([[1970年|70年]])など、工工四集を3冊まとめている。これらの功績に対して[[1976年|76年]]、琉球民謡協会の第1回功労賞を受賞。[[1984年|84年]] から同協会会長を最長の6期務め、[[1998年|98年]]からは名誉会長。[[1999年|99年]]には同協会から琉球民謡名人位を受けた。また[[1989年|89年]]、沖縄県指定[[無形文化財]]技能保持者に認定されている。