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[[山形城]]主[[最上義光]]の家臣。[[慶長]]6年([[1601年]])、義光が[[上杉景勝]]を破って庄内3郡(田川・[[櫛引郡|櫛引]]・[[飽海郡|遊佐]])を奪還すると、田川郡狩川城主として3,000石を与えられた。
 
ところが利長の所領である狩川・清川・立谷沢などの地域は水捌けが悪く、[[灌漑]]による整備が急務であった。そのため利長は、慶長16年([[1611年]])、義光に[[立谷沢川]]の水を田川郡北辺の平野部に引く疏水の建設を願い出た。難工事が予想されたため反対意見も多かったが、[[新関久正]]らの強い勧めもあって、翌慶長17年([[1612年]])3月、義光は利長に着工を命じ、工事に関する指揮権を与えた。このとき庄内一円から集められた人夫は7,400名に及んだ。同年7月、総延長30km余りに及ぶ堰が完成すると、義光は「庄内末世の重宝を致し置き候」とその功績を絶賛し、利長に300石を加増した上で、今後この疏水を利用して開拓される新田が何万石に達しようと、全て利長の知行として取らせるという証書を下した。堰が完成した結果、新たに4,200町歩が開かれて88の部落が興り、石高は当初の10倍の30,000石となった。この堰は利長の名を取って'''北楯大堰'''と呼ばれることになる。
 
[[元和 (日本)|元和]]8年([[1622年]])、[[最上氏]]が改易されると利長も所領を失うが、子の助次郎が、庄内に入封した新領主・[[酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)|酒井忠勝]]に召し抱えられたため、その許で晩年を過ごした。