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'''三船山合戦'''(みふねやまかっせん)とは、[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]の[[永禄]]10年[[8月23日_(旧暦)|8月23日]]([[1567年]][[9月25日]])に[[上総国]][[君津郡]]三船台(現在の[[千葉県]][[君津市]]上湯江・[[富津市]]前久保)において、[[里見義弘]]と[[北条氏政]]の間で戦われた[[合戦]]のこと。
 
== 概要 ==
[[第2次国府台合戦]]において[[里見氏]]は[[後北条氏|北条氏]]によって大敗を喫した。このため、北条氏は里見義弘の上総北部・西部の里見領を悉く占領し、東部においては里見氏の重臣であった[[正木時忠]]・[[土岐為頼]]の帰順に成功させた。更に里見義弘の居城である[[佐貫城]]を奪うべく、三船山(現在の呼称は[[三舟山]]、君津・富津市境)山麓の三船台に[[砦]]を築き嫡男、北条家当主の氏政自らが総督した。里見義弘は三船台の砦が出来た場合、南に1里しか離れていない佐貫城が危機に晒されると考えて三船台に駐屯する北条軍を攻撃した。
 
これを知った北条氏政は[[太田氏資]]らとともに[[江戸湾]]を渡海して佐貫城攻撃に向かい、一方弟の[[北条氏照]]は[[原胤貞]]とともに別働隊を率いて[[市原郡]]方面から[[小櫃川]]沿いを遡って、義弘の父・[[里見義堯]]の居城である[[久留里城]]の攻撃に向かわせた。
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これに対して義弘は[[正木憲時]]とともに佐貫城を出撃して、三船台に集結した氏政の軍を攻撃した。戦いは激闘となり、里見軍が北条軍を破った。この時、[[殿 (軍事用語)|殿]]を務めた太田氏資が戦死した。また、北条・里見の両[[水軍]]の間でも激しい戦いが行われた。勢いに乗じた里見軍が北条軍を追撃する姿勢を見せたために、水陸から挟撃されることを恐れた北条軍は全軍を[[相模国]]に撤退させた。
 
== 影響 ==
 
里見義弘はこの勝利により、先に北条方に奔った[[国人]]達の切り崩しにも成功し、さらなる房総侵攻に成功している。真理谷領は再び里見氏に属した。北条氏からの助力を期待できなくなった正木時忠は永禄12年3月までには里見氏に帰参しており(正木式膳家譜)、土気・東金両酒井氏も里見氏に従属を申し出た。一旦は北条氏と和睦した常陸佐竹氏も、再び上杉氏と同盟している。この敗戦が北条に与えた衝撃影響は大きく、永禄11年末には武田氏との同盟も破れて関東経略の転換をせざるえなくなり、上杉氏と里見氏に同盟を申し入れることになる。里見氏はこの申し入れを断り、上杉氏と北条氏に[[越相同盟]]がなると、佐竹氏とともに武田氏と[[越相同盟#甲房同盟|甲房同盟]]を結んだ。
 
この勝利による房総での里見氏の優位は、北条氏が上杉氏との同盟を破棄して武田氏と再同盟したのち、北条氏の本格的な再侵攻がはじまる[[天正]]3年([[1575年]])頃までは続くことになる。