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==略歴==
中学生時代から演劇部で活動し、鹿児島放送劇団に所属して演出を担当。[[日本大学]]芸術学部演劇学科に進学し、舞台芸術学院、キリン座、青年俳優クラブ、[[劇団民藝]]([[宇野重吉]]に師事)で演劇を学びながら、演劇雑誌『テアトロ』編集部でアルバイトをする。人形劇団[[ひとみ座]]の演出部に所属していたとき、[[日本放送協会|NHK]]のテレビ人形劇『[[ひょっこりひょうたん島]]』、[[TBSテレビ]]の人形劇『[[伊賀の影丸]]』の演出を担当。『ひょっこりひょうたん島』の経験はのちにギャグアニメの仕事をするとき役立ったと長浜は述べている。なお、後に夫人となる三井淳子もひとみ座に所属していた。
 
また、ひとみ座の同期で『伊賀の影丸』の製作者でもある[[藤岡豊]]は、のちに[[アニメ制作会社]][[東京ムービー]]を設立しており、このことが長浜のアニメ演出家への転身に繋がった。
 
東京ムービーのアニメ制作を担当していた[[Aプロダクション]]へ入社し、『[[巨人の星 (アニメ)|巨人の星]]』で一世を風靡したほか、コメディからロボットものまで幅広い作品を手がけた。『[[侍ジャイアンツ]]』を最後に[[1975年]]に同社を退社。アニメ業界に見切りをつけ、日本記録映像社を設立し、1年ほどCM製作などを行なった。『[[勇者ライディーン]]』でアニメ界に復帰し、[[サンライズ (アニメ制作会社)|サンライズ]]との関係を築く。続く『[[超電磁ロボ コン・バトラーV]]』、『[[超電磁マシーン ボルテスV]]』、『[[闘将ダイモス]]』はアニメファンの間で「[[長浜ロマンロボシリーズ|長浜ロマンロボット3部作]]」と呼ばれ、『巨人の星』と並ぶ代表作となっている。特に『超電磁マシーンボルテスV』は、海外でも放送され好評を博したため、映画化も検討されたが結局、実現せず)に至らなかった。『[[未来ロボ ダルタニアス]]』を途中降板し、『[[ベルサイユのばら]]』で古巣の東京ムービーに復帰するも後述の理由から途中降板した。[[フランス]]との合作作品『[[宇宙伝説ユリシーズ31]]』の製作中に劇症肝炎の発症により(後年、夫人もこれに罹るが一命を取り留めている)。これが遺作となった。
 
==人物像==