メインメニューを開く

差分

m
粗暴で暗愚な夫に代わって政治の実権を握った。長きにわたって続いたスペインの政治的干渉から解き放ち、前国王時代から政治を牛耳っていた[[ベルナルド・タヌッチ|タヌッチ]]を追放、兄[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]にならい[[士官学校]]を作り、軍隊の再編をしている。また子にも多く恵まれ、母マリア・テレジアに最も似た人生を送った。軽率なマリア・アントニアではなく{{要出典範囲|マリア・カロリーナが当初の予定通りフランス王妃となっていたら、歴史は大きく異なっていたと言われている|date=2010年5月}}。
 
[[フランス革命]]が起こると、初めは革命側の市民たちに同情を寄せていたが、1793年のルイ16世と後の妹マリー・アントワネットの処刑後、によって態度を硬化させた。るが、それまではナポリ国内における[[フリーメイソン]]活動にも力を貸しておりいたほどで、ナポリには女性が加入できる団体もあったという。ともかく、妹夫婦の処刑という事態に、マリア・カロリーナとフェルディナンドは震え上がり、彼女は妻に甘の言なりである夫を動かしてナポリ・シチリア合同軍を組織させ、フランス革命軍との戦いに転じた。
 
しかしフェルディナンド自身が「どんな立派な軍服を着せても、彼が逃走するのを防げる手立てはない<ref>Napoleon's Campaigns in Italy (Men-at-Arms serise 257) by Philip Haythornthwaite and Richard Hook</ref>」と嘆息するヨーロッパで最弱のナポリの軍隊は、出征した先で負け続け、恥をさらした。それで1796年にナポレオン・ボナパルトの指揮するフランス軍が北イタリアをほぼ手中に収めると、マリア・カロリーナは侵攻を恐れて、800万フランという巨額の賠償金を払って講和して戦線から脱落せざるえなかった。これで皮肉にも(国内での中途半端な改革と戦争での致命的な失敗という)母マリア・テレジアがかつて国政で置かれた状況にも、酷似することになった。
 
妹の処刑や[[ヴェスヴィオ]]の噴火、精神的肉体的に弱ったマリア・カロリーナは[[アヘン]]を常用するようになっていた。
1797年になると彼女の健康状態はかなり悪化していたが、故国[[オーストリア]]との同盟関係を再確認させるなど、依然として外交をリードし、1798年に、教皇領のローマでの反乱がおきるとこれに介入を命じる。しかし鎮圧は失敗したのみならず、年末には僅かなフランス軍の逆襲を受け、ナポリ市までもが占領される事態に発展。1799年1月に[[ナポリ]]で革命が起こり、共和制が成立して、[[パルテノペア共和国]]が宣言されてしまった。6月に国王派が巻き返し、フェルディナンドは実権を辛うじて回復したが、その権威は揺らいだ。[[イギリス]]艦隊が入る前に国王は[[ホレーショ・ネルソン]]提督と同盟を成立させており、条件付き降伏を飲んだ共和派の一部は無事にフランスへ亡命した。しかし、国内にとどまる共和派に対して国王夫妻は情け容赦なく弾圧し、数千人の共和派が捕らえられて処刑された。
 
1806年、フェルディナンドは、絶頂期にあった[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]により、いとも容易く、ナポリ王位から退位させられた。王位はシチリア王のみとなったが、シチリア島に移ってからもマリア・カロリーナは1812年まで実権と影響力を維持した。彼女は、夫が摂政に任命した[[フランチェスコ1世 (両シチリア王)|フランチェスコ]]王子(のちの両シチリア王)に抵抗するが、結局はシチリア島から出て行くように息子から命令され、オーストリアへの亡命を余儀なくされる。こうして晩年は家族から疎まれる存在となり、ウイーンにて病死した。
 
== 子女 ==
1,423

回編集