「ヘッセン方伯」の版間の差分

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|変遷年月日1 = 1264年
|変遷2 = 2つに分裂
|変遷年月日2 = 1458年 - 1500年
|変遷3 = 4つに分裂
|変遷年月日3 = 1567年
}}
 
'''ヘッセン方伯'''([[ドイツ語|独]]:Landgraf von Hessen)は、[[神聖ローマ帝国]]の[[方伯]]。その所領('''ヘッセン方伯領'''、独:Landgrafschaft Hessen)が[[フィリップ1世 (ヘッセン方伯)|フィリップ1世]]の息子たちにより分割されるまでの期間、[[1264年]]から[[1567年]]まで存在した。
 
==歴史==
中世初期にヘッセンは[[テューリンゲン方伯]]領の一部であったが、テューリンゲン継承戦争の後、[[ブラバント公]][[アンリ2世 (ブラバント公)|アンリ2世]]と妃[[ゾフィー・フォン・ブラバント|ゾフィー・フォン・テューリンゲン]]の息子[[ハインリヒ1世 (ヘッセン方伯)|ハインリヒ1世]]に相続された。ハインリヒ1世は1246年に最初のヘッセン方伯となった。
 
[[1458年]]から[[1500年]]まで方伯領は上ヘッセンと下ヘッセンに分裂していたが、[[1509年]]に[[ヴィルヘルム2世 (ヘッセン方伯)|ヴィルヘルム2世]]の代で統合された。
 
[[フィリップ1世 (ヘッセン方伯)|フィリップ1世]]の統治下においてヘッセンの重要性は最も高まった。フィリップ1世は寛大伯とも呼ばれ、[[1524年]][[プロテスタント]]を受け入れ、以降プロテスタント諸侯による保護同盟を創設する処置をとった。
 
1567年のフィリップ1世の死後、方伯領は最初の結婚で生まれた息子たちに分割相続された。
*[[ヘッセン=カッセル方伯]](後のヘッセン選帝侯、1567年 - 1806年/1813年 - 1866年、[[プロイセン王国]]に併合された):[[ヴィルヘルム4世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ヴィルヘルム4世]]
*[[ヘッセン=マールブルク方伯]](1567年 - 1650年、ヘッセン=カッセルとヘッセン=ダルムシュタットに併合された):[[ルートヴィヒ4世 (ヘッセン=マールブルク方伯)|ルートヴィヒ4世]]
*[[ヘッセン=ラインフェルス方伯]](1567年 - 1583年、ヘッセン=カッセルに併合された):[[フィリップ2世 (ヘッセン=ラインフェルス方伯)|フィリップ2世]]
*[[ヘッセン=ダルムシュタット方伯]](1567年 - 1806年、後の[[ヘッセン大公国]] 1806年 - 1918年、[[ヴァイマル共和国]]に併合された):[[ゲオルク1世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)|ゲオルク1世]]
 
==関連項目==