「トータル・ナショナル・ディフェンス」の版間の差分

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'''トータル・ナショナル・ディフェンス'''([[英語]]:Total National Defense、[[セルビア・クロアチア語]]:Opštenarodna odbrana <small>オプシュテナロードナ・オドブラナ</small>、[[クロアチア語|クロアチア・セルビア語]]:Općenarodna obrana、[[スロベニア語]]: Splošna ljudska obramba、[[マケドニア語]]{{lang|mk|Општонародна одбрана}}、マケドニア語ラテン文字転写:Opštonarodna odbrana、略称:'''ONO'''、キリル文字では'''{{lang|sh|ОНО}}''')は、20世紀後半に、社会主義時代の[[ユーゴスラビア]]で採用された防衛ドクトリン。
 
邦訳では「全民衆防衛」とされる。トータル・ナショナル・ディフェンスは世界的に見て、ユニークな防衛態勢であり、[[ユーゴスラビア]]において採用されていたが、考案の段階で[[スウェーデン]]の山岳防衛戦略を参考にしている。但し1991年から始まった[[ユーゴスラビア紛争]]においては、市民が武器を容易に入手可能となっていたかかる防衛体制があだとなり、紛争を激化させてしまった。
 
== 概要 ==
 
ユーゴスラビアの[[チトー]]は[[1948年]]に[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]と断絶したが、断絶以前よりスターリンから幾度となく脅迫を受けていた為、ユーゴスラビアの防衛を担うシステムとして考案された。そもそもチトーはユーゴスラビアをパルチザンで解放したため、かかる草の根的抵抗戦略のプロであった。チトーは[[第二次世界大戦]]中の[[対独戦]]においてユーゴスラビアを強行軍で移動した経験から、ユーゴスラビアは山岳国であり防衛に適している事を熟知していた。実際に対独戦において[[パルチザン]]部隊は、地の利を生かして武装抵抗を行っていた。1948年の断絶以降は何時何処から[[ソ連軍]]及び[[ワルシャワ条約機構]]軍が攻めて来てもおかしくはないほどソ連の脅威は増大していた。そこで考案され採用されたのが、'''トータル・ナショナル・ディフェンス(全民衆防衛)'''である。
 
このシステムは文字通り、国民が一体となり国を防衛するシステムであった。[[スイス]]と似た[[民兵]]制度が根幹にあり、高校生以上の国民は全員、侵略してくる敵に対し、武器を取って抵抗する事になっていた。それは'''国民の権利であり、義務'''でもあった。その為、国民の約6割が即座に武器を取って抵抗する事が出来た。実際にユーゴでは、高校生になると実弾射撃訓練を受けて、敵の武器を奪い戦う事も教え込まれた。
 
ユーゴの軍事組織としては、正規軍の[[ユーゴスラビア連邦軍]]の他に、ミリシアと呼ばれる治安警察軍、それに民兵組織があり、いずれも[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国憲法]]において正規の軍隊として認められていた為に、状況次第でユーゴ軍は巨大な組織になり得た。各企業・各地域の[[自主管理]]組織はそれぞれ独自の防衛委員会を組織していて、緊急時には直ちにパルチザン部隊、[[サボタージュ]]部隊、通信連絡部隊、兵站補給部隊を組織し、実戦行動に移るようになっていた。
 
実際に敵が侵略してきた場合、仮に上層部からの指令がなくとも、各抵抗組織は自主的に決定し、行動することとなっていた。小火器程度の武器・弾薬ならば、自主管理組織が平時にも管理しているので、直ちに使用する事も可能であった。また、爆薬も自主管理組織によって管理されているので、サボタージュ部隊が出動し、主要な橋梁・道路・施設等を爆破することとなっていた。
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実際にユーゴスラビア国内ではこうした軍需物資を隠匿する必要上、山中の道路に一時停止禁止を示す標識なども存在した。
 
 
ユーゴスラビアの防衛に関する基本理念及び戦略は、チトーが健在だった頃の[[1974年]]憲法「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国憲法・1974」に明確に盛り込まれている。一括りで言うならユーゴスラビアは、「トータル・ナショナル・[[レジスタンス運動|レジスタンス]](全民衆軍事抵抗)」を思想的バックボーンとし、「トータル・ナショナル・ディフェンス」の形をとり、総力戦で武装抵抗することとし、国民は全てその権利及び義務を保有する。その為に、国家元首である大統領と言えども、これらの国民の権利を侵してはならないと規定され、軍事占領や降服を受け入れる権利は誰にも与えられず、軍事占領や降服を受け入れる者は反逆罪に問われる事となっていた。