「晋州市 (石家荘市)」の版間の差分

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[[春秋時代]]は[[鼓 (国)|鼓]]の領土であった。その後[[晋 (春秋)|晋]]の攻撃を受けその版図の一部とされている。[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]になると[[燕]]、[[趙]]、[[斉]]により昔陽(現在の十里鋪村)を巡り抗争が発生している。
 
[[紀元前221年|前221年]]、[[秦|秦朝]]は[[鉅鹿郡]]を設置、市域はその管轄とされた。[[前漢|漢代]]になると県制が施行され'''下曲陽県'''が設置された。[[南北朝時代 (中国)冀州]]には[[北魏巨鹿郡]]の下部より'''曲陽県'''とされたが[[北斉臨平県]]により廃止となり[[藁城安郷県]]に編入が設置された.。下曲陽県の県治は都慰(現在の鼓城村附近)に置かれ、これが現在の晋州市の前身となる。
 
[[28年]]([[建武]]4年)、[[洪武帝]]は臨平郷(現在の古城寨)で農民反乱を鎮圧すると、臨平、安郷両県を廃止し下曲陽県に統合している。[[184年]]([[中元]]元年)に発生した[[黄巾の乱]]では下曲陽県は[[広宗県]]や[[巨鹿県]]と共に大きな被害を受けている。反乱は[[皇甫嵩]]によりtン圧され、その際に殺害された8万の農民軍の死体は南紫城(現在の東子城、西子城付近)に埋葬処分され、封土が丘のようになり「京観」と命名されている。
[[隋|隋朝]]が成立すると、[[596年]]([[開皇]]16年)に'''昔陽県'''として再設置が成立し、その2年後に'''鼓城県'''と改称された。[[1215年]]、[[元 (王朝)|元朝]]はこの地に[[晋州 (元)|晋州]]を設置、鼓城県はその州治とされた。[[明|明代]]になるち鼓城県は廃止となり'''晋州'''に統合されている。[[1913年]]([[中華民国暦|民国]]2年)、[[中華民国]]による州制廃止に伴い'''晋県'''と改編された。
 
[[南北朝時代 (中国)]]には[[北魏]]により'''曲陽県'''とされたが[[北斉]]により廃止となり[[藁城県]]に編入された.
 
[[隋|隋朝]]が成立すると、[[596年]]([[開皇]]16年)に'''昔陽県'''として再設置が成立し、その2年後に'''鼓城県'''と改称された。[[1215年]]、[[元 (王朝)|元朝]]はこの地[[1215年]]に[[晋州 (元)|晋州]]を設置、鼓城県はその州治とされた。[[明|明代1238年]]になるち鼓城県晋州一旦廃止となり'''晋州'''にされたが、[[1261年]]([[中]]2年)に再設置されている。元末には天災が続いたこともあり農民反乱が多発、[[19131360年]]([[中華民国暦|民国至正]]220年)には[[中華民国紅巾の乱]]による州制廃止に伴が発生し、魏氏荘、李氏荘、劉氏荘(現在の馬坊営、呂家営、楊家営一帯)が大きな被害を受けて'''晋県'''と改編された
 
[[明|明代]]になるち鼓城県は廃止となり'''晋州'''に改編、下部に[[安平県]]、[[饒陽県]]、[[武強県]]の3県を管轄した。[[1401年]]([[建文]]3年)の[[靖難の変]]では[[滹沱河]]両岸で明軍による戦闘が行われ、鼓城県の人口は激減、社会経済に深刻な影響を与えた。激減した人口を回復し社会経済を立て直すべく、[[永楽]]年間には[[山西省]][[洪洞県]]よりの移民政策を実施している。
 
[[1724年]]([[雍正]]2年)、[[清|清朝]]は晋州を直隷州に昇格させ下部に[[無極県]]及び[[藁城県]]を管轄させ、それまで管轄していた安平、饒陽、武強の3県は[[深州]]に移管された。[[1734年]](雍正12年)、晋州は散州とされ[[正定府]]に直轄とされ、無極、蒿城両県も正定府直轄とされた
 
[[1913年]]([[中華民国暦|民国]]2年)、[[中華民国]]による州制廃止に伴い'''晋県'''と改編された。
 
[[日中戦争]]期間中は[[中国共産党]]による[[中国共産党革命根拠地|抗日拠点]]が設置され、[[1939年]](民国28年)には[[石徳線]]の鉄道を境界に[[晋北県]]及び[[晋南県]]が設置されている。[[1941年]](民国30年)には晋南県と[[藁城県]]南部及び[[正定県]]の一部を統合され[[晋藁県]]が、晋北県は[[深沢県]]及び[[無極県]]と統合され[[深極県]](翌年[[束北県]]と合併し[[束晋県]]となる)が成立した。