「オランダ改革派」の版間の差分

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オランダはカトリックの[[ハプスブルク家]]スペインとの[[八十年戦争]]の結果、1648年の[[ヴェストファーレン条約|ウェストファリア条約]]で独立を承認された。新教(プロテスタント)国家であり、国王もオランダ改革派であった。
 
19世紀になると、オランダ改革派教会は二度の大きな分裂を体験した。第一次分裂(アフスヘイディング)は1834年に起こった。発端はウルラム教会の牧師ヘンドリク・ドゥ・コックが18世紀のオランダ改革派教会を席巻した自由主義的な神学に反対したことによる。第二次分裂(ドレアンシー)は1886年に起こった。発端は当時アムステルダム教会の牧師であった[[アブラハム・カイパー]]の教団批判による。カイパーは教団離脱後、新たな「オランダ改革派教会」(Gereformeerde Kerken in Nederland (GKN))を創設し、さらに[[アムステルダム自由大学]]の創設や、史上初のキリスト教民主主義政党「反革命党」の立党などにも携わり、一大勢力を築いた<ref>こうしたオランダ改革派教会の大混乱の時期は、アメリカ・オランダ改革派教会(Dutch Reformed Church in America)の宣教師[[サミュエル・ロビンス・ブラウン|S.R.ブラウン]]と[[グイド・フルベッキ|G.F.フルベッキ]]が初めて来日して日本伝道を開始した1859年頃と、ちょうど重なる。当時はアメリカも南北戦争の最中で、アメリカの多くの教派が南北分裂を起こしていた。その様子を宣教師ブラウンは非常に憂い、J. M. フェリスに宛てた書簡(1872年9月4日付け)に次のように記している。「今、この国土〔日本〕から、改宗者が集められている、宣教の初期において、イエス・キリストを愛するものは、すべて、この地の教会が一つで、分かれることなく、わたしたちの本国の教会とか、他の国の教会のように、分派によって、異教徒を迷わし、教会の力を弱めることなく、むしろ『日本基督公会』(the Church of Christ in Japan)という、そうした土台をおくことを要望するに相違ないと思います」(高谷道男編訳『S. R. ブラウン書簡集 幕末明治初期宣教記録』日本基督教団出版局、1965年、282頁)</ref>。
 
1960年代以降、二つの異なる「オランダ改革派教会」(NHKとGKN)は再び一つの教団になることを願うようになった。その後、さらにオランダ王国福音ルーテル教会も合同運動に参加した。2004年5月1日、三つの教団の合同が完了し、「オランダプロテスタント教会」と命名された。