「大蓮寺 (金沢市)」の版間の差分

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創建年 =[[慶長]]9年([[1604年]])|
開基 =衍連社広誉怒白上人
正式名 =浄土宗寺宝池山功徳院大連寺|
}}
'''大連寺'''(だいれんじ)は、[[石川県]][[金沢市]]野町にある、[[浄土宗]]の寺院。山号は宝池山。[[前田利家]]公四女[[宇喜多秀家]]公[[正室]]、豪姫の菩提寺。
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平成6年6月吉日、西正門前に豪姫のレリーフを開眼し、平成7年5月21日豪姫の三百六十年回忌法要を奉修、この時に八丈島の秀家公と加賀国の豪姫が生き別れとなってから四百年余りを経て、二人の分骨を頂き、両人の記念碑を当山墓所に建立しお祀りしている。
 
== 豪様 ==
豪姫は加賀藩初代藩主前田利家公と正室[[芳春院|お松の方]]の四女として[[天正]]2年([[1574年]])この世に生まれる。
生後間もなく利家公が親しくしてた人物で、後に天下統一を目指し、関白の座まで上り詰めた羽柴藤吉郎([[豊臣秀吉]])と正室[[高台院|寧々]]の[[養女]]となる、秀吉は豪姫を溺愛し、「もし豪が男であったら関白にしたものを」と寧々に綴っている。
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秀吉長浜時代、[[宇喜多直家]]の嫡男八郎(宇喜多秀家)八歳があずかりの身となるが、その後豪姫と結ばれ、二男二女をもうけることになる。秀家は秀吉の信頼が厚く、成人後には[[備前]]・[[播磨]]・[[美作]]六十万石の太守として、前田利家、[[徳川家康]]、[[毛利輝元]]、[[上杉景勝]]らと共に[[五大老]]の一員として豊臣政権を支える。
 
秀家は、天下分け目の合戦「[[関ヶ原の合戦]]」[[慶長]]5年([[1600年]])で豊臣家の恩義に報いる為に[[西軍]]に加わるが、徳川家康率いる[[東軍]]に破れ、、敗れた秀家公が[[慶長]]11年([[1606年]])4月に息子、[[宇喜多秀高|秀高]]・[[宇喜多秀継|秀継]]と共に[[八丈島]]に流された後、豪姫は備前[[岡山城]]より二人の娘、節・時と[[中村次郎兵衛|中村刑部]]、一色主善輝昌ら数名の家臣を伴い、二代藩主兄前田利長公を頼り、化粧料1500石を与えられ、金沢西町に移り住み余生を送った。
 
当時の金沢は[[キリシタン大名]]として名高い[[高山右近]]が客将として住み、多くの藩士がその影響を受けていた。日本中でも有数のキリシタン信者の町金沢で、豪姫も家臣と共に洗礼を受けていたと伝えられる。