「上海ゲットー」の版間の差分

編集の要約なし
m (小加筆)
[[ファイル:Shanghai ghetto.jpg|thumb|300px|日本の上海地図。桃色は[[上海共同租界|国際共同租界]]。黒い線の範囲が上海ゲットー。]]
[[ファイル:Shanghai ghetto.jpg|thumb|300px|日本の上海地図。桃色は[[上海共同租界|国際共同租界]]。黒い線の範囲が'''上海ゲットー。]]'''上海(しゃんはいゲットー'''、[[英語]]:Shanghai Ghetto)は[[上海市|上海]][[大日本帝国|日本]][[占領]]下の[[虹口区|虹口]]のおよそ一[[平方マイル平方]]の地区。正式には「無国籍難民限定地区」として知られている。[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]支配下にあった[[ドイツ国|ドイツ]]、[[オーストリア]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロヴァキア]]、[[リトアニア]]での迫害から逃れ日本に訪れた[[ユダヤ人]]は、日本が当時公表していた“無国籍難民の定住と商売の制限に関する声明”<ref>[http://i212.photobucket.com/albums/cc137/picaroshen/W020070726567723804113.jpg Proclamation Concerning Restriction of Residence and Business of Stateless Refugees]</ref>によって日本占領下の上海に移住させられた。ゲットーは無祖国難民の限定地区として機能し、20,000人のユダヤ人難民<ref name=CJ>[http://www.chinajewish.org/JewishHistory.htm Shanghai Jewish History] (Shanghai Jewish Center)</ref>と100,000人の中国人が定住し、貧しい[[難民]]が難を逃れ上海に移住するために押し寄せた。
 
現地のユダヤ人家族とアメリカ系ユダヤ人の慈善団体は彼らを保護し、食事と衣服を与えた<ref name=CJ/>。日本の当局は次第にいろいろな制限を強めていき、生活環境は劣悪になっていったがゲットーが封鎖されることは無かった<ref name=AW>[http://www.asianweek.com/2003_01_31/arts_shanghai.html ''Shanghai Ghetto'' Shows a Hidden Piece of WWII History] By Kimberly Chun (AsianWeek)</ref><ref name=GP>[http://www.goletapublishing.com/jstamps/0302-3.htm The Jews of Shanghai. The War Years] by Murray Frost</ref>。現地の中国人居住者も同様に生活水準は悪かったものの、去ることは無かった。
==その背景==
===1936年・ドイツ===
1920年代の終わり、ドイツ系ユダヤ人はドイツ国民として[[ドイツ国|ドイツ]]に忠誠を誓っていた。ドイツ社会に同化し、比較的成功するものも多かった。彼らはドイツ軍に仕官し、ドイツに科学、文化、経済面で貢献するものも多かった。しかし、[[国家社会主義ドイツ労働党|ナチ]]の台頭する[[1933年]]以降、[[ニュルンベルク法]]([[1935年]])や[[水晶の夜]]([[1938年]])のような国家ぐるみの反ユダヤ主義政策によりドイツ系ユダヤ人は追い立てられて海外に[[亡命]]を求めた。しかし、[[ハイム・ヴァイツマン]]によると[[1936年]]当時の世界の情勢は"世界は二つに分かれている。それらの場所はどちらもユダヤ人が住むことができず、また、入ることも許されなかった。"というものであった。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のユダヤ人移民に関する法案、[[エビアン・カンファレンス]]が制定される1930年代終わりまでユダヤ移民に開かれた国を見つけることは不可能に等しかった。
 
ダナ・ジャンクロウイクスマンの著書<ref>''Manchester Guardian'', May 23, 1936, cited in A.J. Sherman, ''Island Refuge, Britain and the Refugees from the Third Reich, 1933–1939'', (London, Elek Books Ltd, 1973), p.112, also in [http://christianactionforisrael.org/antiholo/evian/evian.html The Evian Conference — Hitler's Green Light for Genocide] by Annette Shaw</ref>によると
 
{{quotation|ユダヤ人の男性は捕まえられ、[[強制収容所]]へ入れられていった。彼らは合計2週間から1ヶ月の去るための時間を与え、その時間内に行く先を見つけるように言った。外では彼らの妻や友人が[[パスポート]][[査証|ビザ]]、助けてくれる人を得ようと戦っていた。しかし、どの[[大使館]]も門を閉ざして開けず、そして続いてアメリカを含む多くの国が[[国境]]を封鎖していった。<br />・・・この噂は[[ウィーン]]から始まった。・・・そこにはビザ無しでいくことができる。そこには自由に入る権利があるのだ。その話は炎のように広がっていった。そして皆が自由を求めそこに訪れた<ref>[http://www.jewishjournal.com/home/preview.php?id=9354 Europe’s Harms to China’s Arms] by Sally Ogle Davis and Ivor Davis (''Jewish Journal'') October 4, 2002</ref>。}}
 
===1937年・上海===
上海の[[国際共同租界]]は[[南京条約]]によって設置されたものだった。中国当局は警察、施設管理、入国審査の権限を[[イギリス]]を始めとした列強に奪われ、自治委員会がこれらを実行していた。[[第二次上海事変]]の結果、この地域は大日本帝国に占領されたが、[[日本軍]]と[[南京国民政府]]は[[パスポート]]に関する社会体制を整えなかった。このため上海港は世界中で唯一[[ビザ]]無しで訪れることのできる場所となった。中国と列強の[[不平等条約]]は続いており、上海を訪れるには[[欧州]]からの旅券を見せるだけでよかったのである。
 
ドイツ系ユダヤ人の到着までにも上海には多くのユダヤ人が訪れ、二つのユダヤ人社会を築いていた。[[カドーリエ家]]と[[サッスーン家]]を含む豊かな[[バグダッド]]系ユダヤ人社会と、[[1917年]]の[[10月革命]]で国を追われたロシア系ユダヤ人達が築いた上海のロシア系ユダヤ人社会である。
 
===杉原千畝と何鳳山===
ロシア系ユダヤ人社会の多くは[[リトアニア]]の[[カウナス]]日本領事館で[[杉原千畝]]に救われた人たちである。上海ゲットーに逃れた人々の中にはミール・[[イェシーバー]]の学生や指導者もいた。ポーランドのミール(現在の[[ベラルーシ]])にあったミール・イェシーバーは[[ホロコースト]]を生き延びた唯一のヨーロッパのイェシーバーであった。彼らは自由を求めて[[ロシアソビエト連邦|ソ連]]の広大な[[領域 (国家)|領土]][[列車]]で越えてきたのである。
 
同じように1,000人のオーストリア系ユダヤ人がウィーンの中国領事館で[[何鳳山]]に救われてやってきた。何鳳山は[[1938年]]から[[1940年]]の間ベルリンの中国大使の命令に反対してビザを発行し続けた。
ハラス・カドーリエの設立した欧州ユダヤ人移民援助協会、[[ヴィクトリア・サッスーン]]、[[パウル・コモル]]の三者は新たに欧州移民国際協会を設置して、多くの援助を供給した。この組織は[[上海共同租界|国際共同租界]]や[[上海フランス租界|フランス租界]]に比べ比較的安い虹口の避難所に準備された。かれらはみすぼらしいアパートや学校の前の6つの学校に収容された。上海を占領していた日本の占領当局はドイツ系ユダヤ人を「[[無国籍|亡国の民]]」と見ていた。
 
多くの難民が1937年以降に訪れた。その数は膨れあがり続け、受け入れが困難になっていった。このため1939年からは移民制限が行われた。しかしながら一部のユダヤ人は[[真珠湾攻撃]]が始まる1941年12月まで上海に逃れ続けた<ref>[http://www.gluckman.com/ShanghaiJewsChina.html The Ghosts of Shanghai] by Ron Gluckman</ref>。
 
==ゲットーでの生活==
当局は大規模移民の準備を整えておらず、到着した難民は貧乏な虹口地区で厳しい状況に陥った。10%の家庭が飢餓に近い状態であり、衛生は悪く、雇用は少なかった。
 
バグダッド系とアメリカ・ユダヤ人共同配給委員会は家を借り、食べ物を供給するいくらかの援助を行った。ユダヤ人難民達は言葉の壁、極端な貧困、蔓延する病気、孤立、等に面していた。しかし、コミュニティーが設立した福祉機関によって徐々に生活の質を変えていった。ユダヤ人の文化生活は繁栄した。[[学校]]が設立され、[[新聞]]が発行され、劇場での劇の上演、スポーツチームはトレーニングに参加し、競技会と[[キャバレー]]さえあったという。
 
このような生活は日本の真珠湾攻撃まで続いた。
 
===真珠湾攻撃以降===
日本が[[真珠湾攻撃]]を行って以後、英国民が多かったバグダッド系ユダヤ人グループは抑留され米国慈善基金は中止された。アメリカとの関係は破綻し、雇用の悪化と[[インフレーション|インフレ]]が起こり、再び難民に厳しい時代が訪れた。
 
上海に訪れたアメリカ・ユダヤ人共同配給委員会の連絡係[[ラウラ・マーゴリス]]は日本の当局の許可を得て資金集めの取組みを続け、状況を安定させるように試みた。これを受け、1937年以前に訪れたロシア系ユダヤ人へも支援を行えるようになり、新しい制限も免除された<ref>[http://www3.sympatico.ca/mighty1/special/laura.htm Special Tributes. Laura Margolis, Rescuer of Jews] A Testimonial by Ernest G. Heppner, Author of ''Shanghai Refuge: A Memoir of the World War II Jewish Ghetto''</ref><ref>[http://www.kimel.net/heroes.html Forgotten Heroes of the Holocaust]</ref>。
アメリカの上海空襲は1944年から始まった。最も徹底的な空襲は1945年7月に日本の虹口ラジオ局に対して行われたものであり、31人の難民が死亡し、500名のけが人、700名もの放浪者を出した。
 
ゲットーのユダヤ人の中には[[レジスタンス運動]]を始めるものもいた。彼らは地下組織のネットワークに参加し情報を手に入れ、伝え合った。日本の施設での[[サボタージュ]]を行い、撃墜された[[アメリカ軍]]のパイロットを中国の支配地域に逃げさせることを手伝った<ref name=GP/>。
 
==解放後==
ゲットーは公式には[[1945年]][[9月3日]]に解放された。そのしばらく後、[[蒋介石]]の[[中国国民党]]の軍が上海解放のために進駐した。[[1948年]]の[[イスラエル]]国家の建設、[[1949年]]の国民党の敗退と[[中華人民共和国]]建国によって、ユダヤ人はほとんどが上海から去った。[[1957年]]には上海に残ったユダヤ人は100名しかおらず、現在では数名住んでいるかいないかである<ref name=GP/>。
 
イスラエル政府は[[諸国民の中の正義の人]]の栄誉を[[1985年]]に杉原千畝に、[[2001年]]に何鳳山に与えた。
匿名利用者