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'''アンティパトロス'''([[ギリシャ語|希]]:{{lang|el|'''Αντίπατρος'''}}、ラテン文字転記:Antipatros、[[英語|英]]:Antripater、[[紀元前397年]]-[[紀元前319年]])は[[ピリッポス2世]]と[[アレクサンドロス3世]]に仕えた[[マケドニア]]の[[将軍]]である。
 
== フィリッポスの下で ==
 
アンティパトロスはピリッポス2世の下で主に[[ギリシア]]諸国との外交、行政面で働き、王を補佐していた。ピリッポスが[[トラキア]]、[[テッサリア]]へ遠征していた間はアンティパトロスが国を取り仕切っており、[[紀元前342年]]の秋にはマケドニアが[[紀元前346年]]に加盟した[[アンピクティオン同盟]]に王の代理として[[デルフォイ]]に赴いた。
 
[[紀元前338年]]の[[カイロネイアの戦い]]でのマケドニアの勝利の後、アンティパトロスは[[アテナイ]]へ講和の交渉と戦死者の亡骸を返すために大使として派遣された([[紀元前337年]]-[[紀元前336年]])()<ref>ユスティヌス, IX. 4)4</ref>
 
== アレクサンドロスの元で ==
 
紀元前336年にピリッポスが暗殺され、その息子のアレクサンドロス3世が王位に就いた時にもくと、アンティパトロスは20歳の若い王を支えた。アレクサンドロスの東征の際、アンティパトロスはマケドニア本国に残り、王国の統治、反乱の種のくすぶっていたギリシアを任された。案の定、王の留守を狙って[[紀元前332年]]に[[トラキ<ref>のメムノン]](ペルシッリの将軍の[[メムン]]とは別人)が、[[紀元前331年]]に[[スパルタ王]][[アギス3世]]がマケドニアに対して反乱を起こした。アンティパトロスは[[二正面作戦]]を避けるためにメムノンを許し、アギスと戦った。紀元前331年、アンティパトロスは[[メガロポリスの戦い]]でアギスを破り、反乱を鎮圧した。そして、彼自身のアギスへの勝利、[[エピロス王]][[アレクサンドロス1世 (エピロス王)|アレクサンドロス1世]]の[[イタリア遠征]]の失敗、トラキアでの将軍[[ゾピュリオン]]の敗死などを手紙で王に報告した(ユスティヌス, XIII. 1)11</ref>
 
[[紀元前333年]]にペルシアの小アジア総司令官[[メムノン]]が[[エーゲ海]]からの反攻作戦を計画し、アンティパトロスはそれに備えて部下の[[プロテアス]]に[[エウボイア]]や[[ペロポネソス]]から軍船を集めさせた<ref>ibid, II. 2</ref>。しかし、メムノンの急死によってペルシアの反攻作戦は立ち消えになった。
アンティパトロスはアレクサンドロスの母[[オリュンピアス]]とは当初は友好的な関係で、アレクサンドロスは実は彼の子だという噂が流れるほどであったが、この気の強い王母との関係は徐々に悪化した。現に彼女は息子に向かってアンティパトロスを非難する手紙を書き送っている。
 
また、王の留守を狙って[[紀元前332年]]に[[トラキアのメムノン]](ペルシアの将軍の[[メムノン]]とは別人)が、[[紀元前331年]]に[[スパルタ王]][[アギス3世]]がマケドニアに対して反乱を起こした。アンティパトロスは[[二正面作戦]]を避けるためにメムノンを許し、アギスと戦った。紀元前331年、アンティパトロスは[[メガロポリスの戦い]]でアギスを破り、反乱を鎮圧した。そして、彼自身のアギスへの勝利、[[エピロス王]][[アレクサンドロス1世 (エピロス王)|アレクサンドロス1世]]の[[イタリア遠征]]の失敗、トラキアでの将軍[[ゾピュリオン]]の敗死などを手紙で王に報告した<ref>ユスティヌス, XII. 1</ref>。同年にアンティパトロスは東征軍へと増援部隊を送った<ref>アッリアノス, III. 5</ref>。
[[紀元前323年]]、アレクサンドロスはアンティパトロスに新兵を[[アジア]]まで率いてくるように命じ、一方で[[クラテロス]]にベテラン兵たちを本国へ返す任を命じ、クラテロスにアンティパトロスの地位の引き継ぎを命じた(ユスティヌス, XII. 12)。しかし、摂政位の交代は王の死によりなされることはなかった。アレクサンドロスの死は一般的には[[マラリア]]による病死とされるが、[[ユニアヌス・ユスティヌス|ユスティヌス]]によれば、王に親しい友人たちを殺され、ギリシアでの勝利のために王から疎まれ、さらにオリュンピアスの中傷を受けていたアンティパトロスが、王の執事をしていた息子の[[カッサンドロス]]に命じ、王に毒をもって暗殺させたという(ユスティヌス, XII. 14)。
 
アンティパトロスはアレクサンドロスの母[[オリュンピアス]]とは当初は友好的な関係で、アレクサンドロスは実は彼の子だという噂が流れるほどであったが、この気の強い王母との関係は徐々に悪化した。現に彼女は息子に向かって、東征の間、アンティパトロスとオリュンピアスはアレクサンドロスへと互い非難中傷する手紙を書き送っている<ref>ibid, VII. 12</ref>
 
[[紀元前323年]]、アレクサンドロスはアンティパトロスに新兵を[[アジア]]まで率いてくるように命じ、その一方で[[クラテロス]]にベテラン兵たちを本国へ返す任を命じクラテロスにアンティパトロスの地位引き継ぎをぐよう命じた<ref>ibid, VII. 12</ref><ref>ユスティヌス, XII. 12)12</ref>。しかし、摂政位の交代は王の死によりなされることはなかった。アレクサンドロスの死は一般的には[[マラリア]]による病死とされるが、[[ユニアヌス・ユスティヌス|ユスティヌス]]によれば、王に親しい友人たちを殺され、ギリシアでの勝利のために王から疎まれ、さらにオリュンピアスの中傷を受けていたアンティパトロスが、王の執事をしていた息子の[[カッサンドロス]]に命じ、王に毒をもって暗殺させたという<ref>ユスティヌス, XII. 14)14</ref>。アッリアノスによれば、その毒は[[アリストテレス]]の調合したものであったという<ref>アッリアノス, VII. 27</ref>
 
== 大王の死後 ==
 
アレクサンドロスの死後、[[バビロン会議]]でマケドニアの実権を握った[[ペルディッカス]]はアンティパトロスにマケドニア本国およびギリシアの支配権を認め、ペルディッカスを含む他の重臣らと共同で未だ生まれぬアレクサンドロスと[[ロクサネ]]の子(後の[[アレクサンドロス4世]])の暫定的な[[後見人]]となった<ref>ユスティヌス, XIII. 2, 4)4</ref>
 
[[紀元前322年]]、アンティパトロスはアレクサンドロスの死に乗じたアテナイ、[[アイトリア]]、そして[[テッサリア]]の反乱([[ラミア戦争]])に遭った。緒戦で反乱軍に破れた彼は[[ラミア]]に包囲されたが、[[レオンナトス]]、クラテロスの助けを借りつつ、[[クランノンの戦い|クランノン]]で敵を破り、反乱を鎮圧した。
 
その後、ペルディッカスがアンティパトロスの娘との婚約を破棄し、オリュンピアスの娘と結婚したり、彼が帝国の全支配者になろうとしているとの知らせを受けるなどしたため、次第にアンティパトロスと他の将軍たちはペルディッカスと対立していき、アンティパトロスはクラテロス、[[プトレマイオス1世|プトレマイオス]]らと共に反ペルディッカス同盟を組み、戦争となった(ユスティヌス<ref>ibid, XIII. 6)6</ref>
 
[[紀元前321年]]に遠征先のエジプトでペルディッカスが部下に暗殺されると、残った[[ディアドコイ]]により[[トリパラディソスの軍会]]が開かれ、帝国領と地位の再分配が行われた。この会議でアンティパトロスは帝国摂政となって会議を主導し、アレクサンドロスの遺児アレクサンドロス4世とアレクサンドロスの兄弟の[[ピリッポス3世]]の[[後見人]]としてギリシアを支配するに到った。
 
[[紀元前320年]]、トリパラディソスの軍会でペルディッカス派として討伐の対象となり、[[アンティゴノス1世|アンティゴノス]]によって[[カッパドキア]]の[[ノラ]]に包囲された[[カルディアのエウメネス|エウメネス]]はアンティパトロスに救援を求める要請をした。そこでアンティパトロスは本来は敵のはずのエウメネスのために援軍を送り、アンティゴノスに包囲を諦めさせた(ユスティヌス<ref>ibid, XIV. 2)2</ref>。ここにはアジアの総司令官となり、強大化してきたアンティゴノスへの警戒心があり、その対抗馬としてエウメネスを温存するという意図があったのかもしれない。
 
その後、アンティパトロスは病を患って職を辞し、やがて死んだ。その際、彼は自身の地位を老将[[ポリュペルコン]]に譲った。しかし、この人事は後の混乱の元となる不味いものであった。というのも、我こそは父の地位を継ぐものと思っていたカッサンドロスはその人事に不満を抱き、アンティゴノスと組んでポリュペルコンに対峙し、新たな戦争の火種となったからである。
 
== 註 ==
 
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== 参考文献 ==
 
*[[アッリアノス]]著、大牟田章訳、『アレクサンドロス大王東征記』(上)(下)、[[講談社]]、2001年
*[[ポンペイウス・トログス]]著、[[ユニアヌス・ユスティヌス]]抄録、合阪学訳、『地中海世界史』、[[京都大学学術出版会]]、1998年