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'''青年の島'''(Isle of Youth、スペイン語ではIsla de la Juventud)は、[[キューバ]]に属する[[島]]。島の面積は3,056km²で、キューバ本島を除いては最も大きい島である。[[西インド諸島]]の中でも6番目に大きい。[[1978年]]に改称されるまでは、ピノス島と呼ばれていた。
 
キューバ本島のGulf of Batabanóから南西100kmのところ、[[ハバナ]]や[[ピノール・デル・リオ]]からほぼ真南にある。島単独かつ全体が特別自治区とされ、キューバ政府により直接統括されており、その広さ・人口・経済的な性格はキューバの他の州と異なる。
 
350もの島と[[珊瑚礁]]からなる''Canarreos Archipelago''と呼ばれる島々の中で最も大きいこの島には、10万人近い住民がいる。最大の町は島の北部にある[[ノバ・ジェローナ]]で、自治体の州都でもある。2番目に大きく最も古い町は、島の内陸部にある[[サンタフェ]]である。その他の集落としては、コロンビア、マッキンリィ、サンタバーバラ、アルタ山地、プンタ・デル・エステ、シェラ・デ・カパロス、そしてシェラ・デ・カーサがある。
 
== 歴史 ==
プンタ・デル・エステの海岸の近くの幾つかの洞窟には、原住民の手になると見られる235点あまりの[[洞窟絵画]]が残されているものの、[[クリストファー・コロンブス|クリストーバル・コロン]]がやってくる以前のこの島の歴史については殆ど知られていない。ヨーロッパでは、コロンによる[[1494年]]の第3回の新大陸への航海によって、初めて知られるようになった。コロンはこの島を''La Evangelista''と呼び、[[スペイン]]領と宣言した。以来、島は時代によって、 ''Isla de Cotorras''(オウムの島)と呼ばれたり、''Isla de Tesoros''(宝島)と呼ばれたりしてきた。
 
この海域やその周辺で活躍した[[海賊]]たちは、英語の文献の中にその記録が残っている。[[ロバート・ルイス・スティーブンソン]]の『宝島』、[[ジェームス・マシュー・バリー]]の『ピーターパン』は、その題材をこの島やその住民、また海賊たちについて語られてきたことの一部から採っている。たとえば、海賊や先住民たちがしばしば使っていた[[丸木舟]]やこの島にいる大きな[[アメリカワニ]]などはそうである。
 
[[米西戦争|米西キューバ戦争]]で[[アメリカ合衆国]]が勝利を収めてから、[[1898年]]の[[パリ条約 (1898年)|パリ条約]]の締結により、[[スペイン]]はキューバに対する[[領有権]]を放棄した。青年の島は、キューバの領土を定めた覚書からその名が脱落していたため、アメリカ合衆国と新に独立したキューバとの間で、領土問題での係争案件となった。[[1907年]]アメリカ合衆国の最高裁判所が、青年の島は合衆国に属するものではないとの裁定を下したため、合衆国政府は、それ以上の争いを断念し、[[1925年]]アメリカ合衆国政府とキューバとの間での覚書を取り交わし、この島の領有権はキューバ政府のものとなった。
 
== 地理と産業 ==
[[Image:Isle of Youth (Cuba).jpg|thumb|150PX|地図]]
 
島の大半は[[]]の森で覆われている。これは島の主要産業である材木業の貴重な資源となっている。北部は低い岩盤の尾根になっており、そこには大理石の[[採石場]]がある。対して、南部はやや小高いフラットな土地が続く。基幹産業は、農業と漁業で、[[レモン]]と野菜の栽培が盛んに行われる。火山活動のおかげで、黒土の海岸が連なっている。
 
島は温暖な気候に恵まれているが、しばしば[[ハリケーン]]に襲われる。これはビーチやリゾート、有名なビビジャグア・ビーチも含めて、ほとんど観光客の宿命といってもいいようなものである。キューバ政府が1960年代初めにあらゆる外国人の所有する財産を国有化するまでは、ほとんどの土地はアメリカ人の所有に帰していた。
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== 刑務所 ==
[[Image:Presidio Modelo.JPG|thumb|プレシディオ・モデーロ刑務所、2005.12月撮影]]
1953年から1955年まで[[キューバ革命]]の指導者[[フィデル・カストロ]]は、オリエンタ州の[[モンカダ兵営]]を攻撃した疑いで[[フルヘンシオ・バティスタ]]政権によりこの島のプレシディオ・モデーロ[[刑務所]]に収監されていた。のちにカストロは、[[ウベール・マトス]]に代表されるような、自分たちに抵抗する反革命勢力の指導者達、及びかつては革命軍を支持した政府軍の将軍だったものの、のちに革命政府と軋轢を起こすようになった人々を今度はここに収監した。
刑務所内での虐待、[[拷問]]が問題になっている。
 
プレシディオ・モデーロ刑務所は現在では閉鎖されており、記念館として公開されている。閉鎖した刑務所の代わりに、より近代的な複数の刑務所が建てられている。以下のものがそれである。: