「パーヴェル・フィローノフ」の版間の差分

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==略歴==
1883年、[[モスクワ]]に生まれる。[[1887年]]に父親、[[1896年]]に母親を失う。[[1897年]]に[[ペテルブル]]の姉の嫁ぎ先に移住、活動の拠点とする。[[1903年]]頃からアカデミー会員、レフ・ドミートリエフ=カフカスキーの画塾に通う。[[1908年]]から美術アカデミーで学ぶが、[[1910年]]、アカデミーを追われる。しかし、この頃から頭角をあらわし、ロシア未来派のグループのひとつ、「青年同盟」に参加、その展覧会に出品。[[1913年]]には[[マヤコフスキー]]の悲劇「ウラジーミル・マヤコフスキー」の舞台装置を手掛けた。[[1914年]]、マニフェスト「つくられた絵画」を出版。この頃から、いわゆる「分析主義」と呼ばれる、独自の絵画理論に取り組み始める。[[1916年]]から[[1918年]]にかけて、第一次大戦における軍務に服し、[[ルーマニア]]戦線に赴く。[[1919年]]、ペトログラード冬宮(現在の[[エルミタージュ美術館]])における「第一回国立自由芸術作品展」に参加、注目を浴びる。[[1922年]]、[[ベルリン]]におけるロシア・ソビエト美術展に参加。[[1923年]]、マニフェスト「世界的開花宣言」を発表。[[1925年]]にはフィローノフ派である「分析的芸術工房(МАИ/マイー)」を結成、以後、様々な舞台装置のデザイン、出版物のデザインや挿絵の制作などを行う。[[1929年]]、ロシア美術館で個展が計画されるが、三年間の延期の末、中止させられる。1941年、第二次大戦におけるドイツ軍包囲の[[レニングラード]]で死去(58歳)。死因については肺炎とも餓死とも言われる。
 
==評価==