「岡野包秀」の版間の差分

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== 生涯 ==
岡野包住(赤穂藩番使200石)の長男として[[赤穂市|赤穂]]に誕生。妾腹の子であるが、他に男子はいなかったので岡野家の嫡男となる。しかし[[元禄]]14年([[1701年]])3月14日に主君[[浅野長矩]]が[[吉良義央]]に刃傷に及んだ際にはまだ部屋住み(家督前)の身であった。4月、父包住は、[[大石良雄]]に神文[[血判状|血判書]]を提出し、岡野一家は赤穂田井村に住んだ。しかしその後父が病に倒れたため、父にかわって包秀が同志たちと連絡を取り合い、元禄15年([[1702年]])閏8月25日には病の父を残して[[武林隆重]]らとともに江戸へ下向し、[[堀部武庸]]借家に住んだ。9月5日に父が死去するが、この報を[[江戸]]で知った包秀は、自らの称を父と同じ「金右衛門」に改めた。その後、本所[[相生町]]の[[前原宗房]]の店に移ったと言わている。
 
ここで包秀の吉良邸絵図面に関する逸話が生まれた。前原の店で手代をしていた美男子の包秀は、この店に客としてやってきた本所大工元締めの平兵衛の娘お艶に近づいて恋人となり、彼女に吉良家の普請を請け負った平兵衛の持つ吉良邸絵図面を盗ませる。しかし恋人を騙してしまったことに自責の念を感じて、岡野は愛と忠義の狭間で苦悩するという筋書きのもの。
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吉良邸討ち入り時の際には表門隊に属した。本懐後、[[伊予松山藩|伊予松山藩主]][[松平定直]]邸に預けられ、同家家臣の加藤斧右衛門の介錯にて切腹。[[享年]]24。主君浅野長矩と同じ高輪[[泉岳寺]]に葬られた。法名は刃回逸剣信士。
 
[[俳人]]としてもなかなかの人物だったようで、'''放水子'''・'''竹原'''などの雅号を持ち、[[大高源五]]が編集した『俳諧二ツ竹』にも岡野の句がっている。
 
==関連==