「ペルシア帝国」の版間の差分

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==古代ペルシア帝国==
 
===[[アケメネス朝]]===
[[アケメネス朝]]は、[[キュロス2世]]により、[[メディア王国]]、[[リディア王国]]、[[新バビロニア王国]]を滅ぼし、新バビロニア王国により移住させられたユダヤ人を解放し、[[バビロン捕囚]]を終焉させた。キュロス2世の息子[[カンビュセス2世]](カンブジャ)により、[[エジプト]]を併合して、古代オリエント世界を統一した。[[ダレイオス1世]]が[[ペルシア戦争]]を起こしたが敗北した。[[ダレイオス3世]]のとき[[アレクサンドロス3世|マケドニアのアレクサンドロス]]により征服され滅亡した。
 
===[[アルサケス朝]]===
[[アルサケス朝]]は、アルシャク朝、[[パルティア]]とも呼び、古代中国では安息国と呼ぶ。[[セレウコス朝シリア]]から独立し、アルサケス(アルシャク)により建国された。[[ローマ帝国]]との抗争で、ローマ将軍の[[マルクス・リキニウス・クラッスス|クラッスス]]を戦死させた。
 
===[[サーサーン朝]]===
[[サーサーン朝]]は、アケメネス朝の正統な後継者を称し、アルサケス朝と戦い勝利し、アケメネス朝ペルシアの称号を引き継いだ。ローマ帝国との抗争では[[シャープール1世]]は[[ヴァレリアヌス]]を捕虜にした。[[東ローマ帝国]]との抗争では[[ホスロー1世]]は[[ユスティニアヌス1世]]から賠償金を得た。
[[ホスロー1世]]は突厥と同盟を結び、[[サーサーン朝]]を圧迫していた[[エフタル]]を滅ぼした。[[ヤズデギルド3世]]の時代に[[ニハーヴァンドの戦い]]で[[正統カリフ]]時代の[[イスラム帝国]]に敗北して崩壊し、再起を目指したが滅亡した。
 
==イスラムペルシア帝国==
 
===[[ブワイフ朝]]===
[[ブワイフ朝]]は、カスピ海南西岸内陸のダイラム地方から勃興した王朝。ブーヤ朝とも。[[アッバース朝]]イスラム帝国の[[バグダード]]に入城し、アッバース朝から[[アミール|大アミール]](アミール・アル=ウマラー)の称号を獲得し、その後シャーハンシャーを名乗った。[[イクター制]]を導入した。[[セルジューク朝]]が台頭した後、セルジューク朝がバグダードを握り滅亡へと向かった。
 
===[[サファヴィー朝]]===
[[サファヴィー朝]]は、イスラム教[[シーア派]]の一派[[十二イマーム派]]を信奉するサファヴィー教団から勃興した王朝。[[イルハン朝]]時代にイラン北西部のアルダビールを根拠地とした預言者[[ムハンマド]]の後裔[[サイイド]]のひとりサフィーユッディーンを始祖とするサファヴィー教団が、初代君主となる15世紀末の教主[[イスマーイール1世]]の時代にアルダビール周辺の[[テュルクメン]]系の遊牧諸部族からの信奉を受けて[[クズルバシュ]]と呼ばれる軍事集団が形成され、軍事的・領土的に急拡大した。[[十二イマーム派]]がイランの国教となる直接的端緒となった。[[ブワイフ朝]]滅亡後、長い間イラン系の君主による王朝が現れず、使われていなかった君主号としてのシャーの称号を復活させた、とされる。イスラム教[[スンナ派]]の[[オスマン帝国]]との抗争を繰り返した。イスマーイールはオスマン帝国の[[セリム1世]]と戦い惨敗した。第5代[[アッバース1世]]が[[カズヴィーン]]から[[イスファハーン]]に遷都し大幅な都市の拡張を行った。[[アフシャール朝]]により滅亡した。
 
===[[アフシャール朝]]===
[[アフシャール朝]]は、[[サファヴィー朝]]君主の[[摂政]]であった[[ナーディル・シャー]]が、サファヴィー朝最後の君主シャー・[[アッバース3世]]の死によって同王朝が断絶したことにより、[[シャー]]を名乗って成立した王朝。オスマン帝国を破って勢力を回復したがすぐに衰退し、[[カージャール朝]]に滅ぼされた。
 
===[[カージャール朝]]===
[[カージャール朝]]は、[[ザンド朝]]や[[アフシャール朝]]と争い、[[アフシャール朝]]を滅ぼし、トゥルクマーン系カージャール部族連合のアーカー・ムハンマド・ハーンが[[1796年]]、[[シャー]]として戴冠した。[[ロシア帝国]]との抗争で領土を減らし、[[イギリス]]からの圧力を受けるようになった。[[ペルシア人]]の民族主義の高揚により、[[タバコ・ボイコット運動]]がおき、[[ペルシア立憲革命]]がおきた。その後、[[1925年]]にレザー・パフラヴィーにより[[パフラヴィー朝]]が創設され、滅亡した。
 
===[[パフラヴィー朝]]===
[[パフラヴィー朝]]は、[[1925年]]、[[レザー・パフラヴィー]]が[[カージャール朝]]を廃して創設し、[[1935年]]、国号を[[ペルシア]]から[[イラン]]に改称するように諸外国に要請したが混乱が見られ、[[1959年]]、研究者らの主張により[[モハンマド・レザー・パフラヴィー|パフラヴィー2世]]がイランとペルシアは代替可能な名称と定めた。[[1979年]]、[[ルーホッラー・ホメイニー]]による[[イラン革命]]が勃発し、パフラヴィー2世が[[エジプト]]に亡命して滅亡。[[イラン|イラン・イスラム共和国]]となった。
 
==関連項目==
 
* [[ゾロアスター教]]
* [[イスラム国家]]
* [[イスラム王朝]]
 
 
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