「塩冶氏」の版間の差分

 
== 概略 ==
[[近江源氏]]の嫡流[[佐々木秀義]]の五男[[佐々木義清|義清]]が、[[承久]]3年([[1221年]])[[6月 (旧暦)|6月]]に起きた[[承久の乱]]で、武家方に味方して勝利した功により、[[出雲国|出雲]]・[[隠岐国|隠岐]]2国の[[守護]]となり<ref>一説に、「[[文治]]元年([[1185年]])、[[出雲国|出雲]]・[[隠岐国|隠岐]]2国の[[守護]]となり、[[月山富田城]]に入る」とする本もあるが、実際には[[承久の乱]]の功により、[[出雲国|出雲]]・[[隠岐国|隠岐]]の2国を賜ったため、この年代に関しては疑わしい。</ref>出雲に下向し、[[義清]]の孫[[塩冶頼泰]]が、出雲国[[神門郡]][[塩冶郷|塩冶(えんや)郷]]の[[大廻城|大廻(おおさこ)城]]に本拠地置き[[本貫]]として地名塩冶氏名乗りとしたことから興る氏族。
 
以後[[鎌倉時代]]を通じて出雲守護職を務めた。鎌倉末期の元弘3年([[1333年]])、[[塩冶高貞]]のとき[[後醍醐天皇]]の討幕運動に参加、のち本宗家の当主[[佐々木道誉]]とともに[[足利尊氏]]に寝返り、[[室町幕府]]が開かれると高貞は出雲、隠岐両国の守護職に任じられ家門の隆盛を見た。しかし後、高貞は尊氏の執事である[[高師直]]と対立して謀反の疑いありと讒言されたため、京を出奔し守護国である出雲へと走ったが、討伐され塩冶氏の嫡流は没落した([[塩冶判官讒死の事]])<ref>『[[太平記]]』による。</ref>。
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