「ニコライ・ニコラエヴィチ (1856-1929)」の版間の差分

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ニコライ大公は1905年の[[ロシア第一革命]]では極めて重要な役割を果たすことになった。無政府状態が拡大し、[[ロマノフ王朝]]の未来が風前のともしびとなりつつある中で、皇帝ニコライ2世は[[セルゲイ・ヴィッテ]]伯爵の提案する立憲君主政体への改革案を受け入れるか、軍事独裁体制をしくかの選択を迫られた。大公は皇帝が軍事独裁のクーデタを起こす場合でも、軍隊の忠誠を皇帝につなぎ止めておける唯一の人物であった。皇帝は後者の選択肢を選び、ニコライ大公に軍事独裁官の地位を与えようとした。しかしニコライ大公は独裁官に就任するのを拒否し、おもむろにピストルを取り出すと自分のこめかみに銃口をあて、もしヴィッテ伯爵の改革案を了承しないのならば、この場で自殺すると皇帝を脅したのである。大公の脅しに動揺したニコライ2世は、立憲君主制への改革に踏み出すことを決意した。
 
1905年から第1次大戦開始まで、ニコライ大公は、親衛隊と[[サンクトペテルブルク]]軍管区の総司令官を務めていた。大公は低い出自の者でも分け隔てなく高い地位に取り立てたので、評判を高めた。敗北に終わった日露戦争の屈辱を、大公は自分の部下たちにしっかりと覚えておかせた。
 
1907年、ニコライ大公はモンテネグロ王[[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]の娘[[アナスタシア・ニコラエヴナ (1868-1935)|アナスタシヤ・ニコラエヴナ]]と結婚した。アナスタシヤはニコライ大公自身の弟[[ピョートル・ニコラエヴィチ|ピョートル]]大公の妻[[ミリツァ・ニコラエヴナ]]大公妃の妹で、ロイヒテンベルク公爵と離婚したばかりだった。この結婚は幸福なものとなった。大公夫妻はどちらも非常に敬虔な[[正教徒]]であり、また二人とも[[神秘主義]]に傾倒していた。アナスタシヤは出身国[[モンテネグロ]]の反[[トルコ]]感情の強い環境で育ったためか、極端なスラヴ民族主義者であり、このことは大公の[[汎スラヴ主義]]志向にますます拍車をかけた。大公夫妻には子供はいなかった。