「小泉組 (請負業)」の版間の差分

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概要
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== 概要 ==
[[武蔵国]][[久良岐郡]][[六浦荘村]]大道(現在の[[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]]大道)の[[鳶職|とび職]][[小泉由兵衛]]が[[明治]]初期、[[横須賀市|横須賀]]に移住し、[[海軍]]の[[軍艦]]に[[石炭]]、[[砲弾]]、[[食糧]]、[[労務者]]などを送り込む[[手配師|請負師]]<ref>[[猪野健治]]著『やくざと日本人』211頁に「[[博徒]]の伝統的な業態に“労働力供給業”がある。[[戦後]]でいう“[[手配師]]”がそれだが、[[戦前]]は単に[[労務者]]を労働現場へ送り込むだけでなく、自らも労働現場で“飯場”を経営した。[[大正時代|大正]]、[[昭和時代|昭和]]の[[炭鉱]]、鉱山、工事現場、[[沖仲仕]]等の“タコ部屋”、“労働監獄”は、そのあくどさの典型であった。“労働力供給業”のすべてが、そうであったわけではないが、この業態そのものが[[労働者]]を不当に拘束し、虐待する性格をもっていることは否定しがたい。[[明治時代|明治]]以後の“労働力供給業”は、日本の急テンポの[[近代]]化ともあいまって土木建築請負業に集中した。」とある</ref>となった<ref>当時の横須賀では[[沖仲仕]]の[[手配師]]として、目兼の大親分と小泉組が縄張りを競い合い、[[博徒]]たちのにぎやかな出入りがくり返されていたという([[藤原肇]]『小泉純一郎と日本の病理』29頁)。梅田功の著書『変革者 小泉家の3人の男たち』28頁に「又次郎が生まれた当時、[[鎌倉街道]]に面したこの地は、戸数わずか三十二戸の小さな村であったという。父・[[小泉由兵衛]]は[[村]]の代々の[[鳶職]]だったが、のちに軍港[[横須賀市|横須賀]]に進出して、海軍に労働者を送り込む軍港随一の[[手配師|請負師]]になった」とある。作家[[火野葦平]]著『青春の岐路』には「[[手配師|請負師]]も、小頭も、[[沖仲仕|仲仕]]も、ほとんどが、[[酒]]と[[博打|バクチ]]と女と喧嘩とによって、仁義や[[任侠]]を売りものにする一種の[[ヤクザ]]だ。大部分が無知で、低劣で、その日暮らしといってよかった。普通に考えられる工場などの労働者とはまるでちがっている」とある。[[宮崎学]]の著書『[[ヤクザ]]と日本―近代の無頼』54-55頁には「1884年(明治17年)に海軍鎮守府が置かれた横須賀は、[[日清戦争]](1894~1895年)から[[日露戦争]](1904~1905年)にかけて軍港として急速に発展したが、ここでも、軍艦に砲弾や燃料の石炭、食糧などを積み込む仲仕の組織が発達し、これを仕切る仲仕請負から[[やくざ]]組織が生まれていったのである。当時、横須賀でこの仲仕の仕切りでしのぎを削ったのが、[[博徒]]の目兼組と鳶の小泉組であった。この縄張り争いは、近世以来の古い型の博徒である目兼組を抑えて、新興の小泉組が制していく。そして、この小泉組を率いていた鳶の親方・[[小泉由兵衛]]が跡目を継がせた息子の又次郎がこの帰趨を決定的にし、小泉組は軍港の[[やくざ]]として一大組織を築くことになった。この又次郎こそが、のちの首相・[[小泉純一郎]]の祖父であった。この小泉組も、[[吉田磯吉]]と同じ時期、同じ環境から生まれてきた近代[[ヤクザ]]のひとつにほかならない。」とある。[[猪野健治]]著『[[侠客]]の条件 吉田磯吉伝』170-171頁には「[[やくざ]]組織の構成層は、いつの時代においても社会から疎外された被差別階層であった。その構成層は、封建時代にあっては、下級[[武士]]、[[浪士|浪人]]、人足、農民、[[職人]]等であり、[[明治時代|明治]]以降、[[昭和時代|昭和]]にかけては、没落[[士族]]、中小鉱山港湾土木建築関係者、土方、農漁民、職人等の一部であった。彼らこそ失うべき[[名誉]]も地位も財産もなにものももたない階級の所属者であった。彼らがときに発揮する反権力性は、実は彼らの階級性の気まぐれな表現であり、民衆が彼らに期待する[[任侠]]道とは、階級意識の原始的顕現にほかならない。」とある</ref>。その影響力は、やがて「港湾一の請負業」とよばれ羽振りをきかせたという。
 
[[第二次世界大戦]]で日本軍が南方に進出していった時代、小泉組も占領地などの兵舎建設にたずさわっていた<ref>