「奥田重盛」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
5行目:
[[延宝]]8年([[1680年]])[[内藤忠勝]]が芝[[増上寺]]での[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家綱|家綱]]の葬儀の場で[[永井尚長]]を殺害し、鳥羽藩は[[改易]]となった。このため父の孫太夫は[[浪人]]となったが、重盛はそのまま赤穂藩に仕えた。
 
重盛は[[江戸]]で剣客として知られた[[堀内源太左衛門正春]]に学び、[[堀部武庸]]とともに高弟に数えられ、大太刀の使い手であった。重盛には男子がなく、[[近松行重]]の弟[[奥田行高]]を養子に迎える。
 
元禄14年([[1701年]])3月14日、主君浅野長矩が[[江戸城]][[松之大廊下]]で[[吉良義央]]に刃傷に及び、浅野内匠頭は即日[[切腹]]、赤穂藩は[[改易]]と決まった。重盛は江戸詰の藩士堀部武庸、[[高田郡兵衛]]とともに[[赤穂市|赤穂]]へ赴き、[[家老]][[大石良雄]]に篭城を迫っている。[[赤穂城]]開城後に江戸へ戻り、重盛は堀部、高田とともに強硬に[[仇討ち]]を主張する急進派の中心となる。