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'''楊諒'''(ようりょう、[[575年]] - [[605年]])は、[[中国]]の[[隋]]の[[楊堅|文帝]](楊堅)の五男。漢王に封ぜられたが、乱を起こして庶
==経歴==
楊堅と[[独孤皇后|独孤伽羅]]の
楊諒は[[太原]]において精兵をたくわえ、軍備を整えた。[[梁 (南朝)|梁]]の[[王僧弁]]の子の王頍や[[陳 (南朝)|陳]]の旧将の[[蕭摩訶]]といった人物を部下に
[[604年]]、文帝が死去すると、[[煬帝]]が楊諒を召還しようとしたが、楊諒は
蒲津まで100里余りのところにきて、楊諒は考えを変え、紇単貴に命じて[[黄河]]の橋を落として蒲州を守らせ、裴文安を召還した。裴文安は諫めたが、楊諒は答えず、王聃を蒲州刺史とし、裴文安を晋州刺史とし、薛粹を絳州刺史とし、梁菩薩を潞州刺史とし、韋道正を韓州刺史とし、張伯英を沢州刺史として守らせた。
煬帝は[[楊素]]に騎兵5000をつけて派遣した。楊素は王聃・紇単貴を[[蒲州]]で撃破した。楊素は4万の兵を率いて太原に向かい、趙子開を高壁で撃破した。楊諒は楊素の進軍を蒿沢で阻止しようとしたが、大雨に遭い、王頍の諫めも聞かずに軍を返して、清源に退き守った。楊素が清源に進撃すると、楊諒の率いる軍は隋の官軍と大戦して、死者1万8千人を出した。楊諒は并州に撤退し、楊素が兵を進めて并州を包囲した。楊諒は逼塞して楊素に降伏した。隋の百官は楊諒の罪が死罪に相当すると上奏したが、煬帝は兄弟の情において忍びないとして、楊諒の官爵を剥奪して庶 子に楊顥があり、禁錮を受けていたが、[[宇文化及]]の乱のときに殺害された。
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[[Category:隋
[[Category:575年生]]
[[Category:605年没]]
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