「アルブレヒト1世 (バイエルン公)」の版間の差分

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[[1347年]]に父が没し、[[1349年]]に遺領が分割された時、上バイエルンは[[ルートヴィヒ5世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ5世]]、[[ルートヴィヒ6世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ6世]]、[[オットー5世 (バイエルン公)|オットー5世]]が、下バイエルンは[[シュテファン2世 (バイエルン公)|シュテファン2世]]、[[ヴィルヘルム1世 (バイエルン公)|ヴィルヘルム1世]]、アルブレヒト1世がそれぞれ相続した。[[1353年]]には下バイエルンは更に分割、シュテファン2世は[[ランツフート]]を、ヴィルヘルム1世とアルブレヒト1世は[[シュトラウビング]]を相続した。
 
[[1356年]]に兄ヴィルヘルム1世が母の死によりエノー、ホラント、ゼーラントを相続したが、間もなく兄が発狂した為、[[1358年]]に摂政として政務を代行、事実上[[ネーデルラント]]の単独統治者となった。ヴィルヘルム1世は[[1389年]]に死ぬまで幽閉され、名目上の共同統治者に置かれた。この間、アルブレヒト1世は子供達を各王族と縁組させているが、3女[[マルグリット・ド・バヴィエール|マルガレーテ]]が生んだ孫[[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ善良公]]が最終的にエノー、ホラント、ゼーラントを獲得した。
 
しかし、愛人が政治に介入し、それに乗じてタラ派(Kabeljauws)と呼ばれる党派が実権を握った為、反対派のフック派(Hoeks)が長男の[[ヴィルヘルム2世 (バイエルン公)|ヴィルヘルム]]と結んでアルブレヒト1世と対立、内乱が発生してしまった。[[1397年]]には下バイエルン=シュトラウビングの共同統治者であった次男の[[アルブレヒト2世 (バイエルン公)|アルブレヒト2世]]に先立たれている。
 
[[1404年]]に死去してヴィルヘルムが後を継いだ為、内乱は一旦収まったが、[[1417年]]に彼が一人娘[[ジャクリーヌ・ド・エノー|ジャクリーヌ]]だけを残して死去すると、[[リエージュ司教領|リエージュ司教]]だった3男[[ヨハン3世 (バイエルン公)|ヨハン]]とジャクリーヌが相続を巡って争い、タラ派とフック派の内乱も再燃、フィリップ善良公も介入、内乱を通して[[ヴァロワ=ブルゴーニュ家]]がネーデルラントに勢威を拡大していった。
 
== 家族 ==
[[1353年]]に[[ブジェク公国|ブジェク公]][[ルドヴィク1世 (ブジェク公)|ルドヴィク1世]]の娘マルガレーテ(1342年/1343年 - 1386年)と結婚。7人の子を儲けた。
 
# カタリーナ(1361年 - 1400年) - [[1379年]]にユーリヒ公[[ヴィルヘルム3世 (ユーリヒ公)|ヴィルヘルム3世]]と結婚。
# [[ヨハンナ・フォン・バイエルン|ヨハンナ]](1362年 - 1386年) - [[1370年]]に[[神聖ローマ皇帝]][[ヴェンツェル (神聖ローマ皇帝)|ヴェンツェル]]と結婚。
# [[マルグリット・ド・バヴィエール|マルガレーテ]](1363年 - 1423年) - [[1385年]]に[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]][[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン]](無怖公)と結婚。
# [[ヴィルヘルム2世 (バイエルン公)|ヴィルヘルム2世]](1365年 - 1417年) - 下バイエルン=シュトラウビング公、エノー伯、ホラント伯、ゼーラント伯。
# [[アルブレヒト2世 (バイエルン公)|アルブレヒト2世]](1369年 - 1397年) - 下バイエルン=シュトラウビング公。父に先立って死去。
# ヨハンナ・ゾフィー(1373年 - 1410年) - [[1390年]]に[[オーストリア君主一覧|オーストリア公]][[アルブレヒト4世 (オーストリア公)|アルブレヒト4世]]と結婚。
# [[ヨハン3世 (バイエルン公)|ヨハン3世]](1374年 - 1425年) - [[リエージュ司教領|リエージュ司教]]、下バイエルン=シュトラウビング公。
 
[[1394年]]にマルク伯アドルフ3世の娘マルガレーテ(1375年 - 1411年)と再婚。子はなかった。他に数人の庶子がいた。