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'''エドゥアルト・フォン・デア・プファルツ'''(Eduard von der Pfalz, [[1625年]][[10月5日]] - [[1663年]][[3月10日]])は、[[プファルツ=ジンメルン家]]の一族でプファルツ=ジンメルン伯。父は[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]]で[[ボヘミア王国|ボヘミア]]王でもあった[[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]、母は[[イングランド王国|イングランド]]王兼[[スコットランド王国|スコットランド]]王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]の娘[[エリザベス・ステュアート|エリーザベト]]。プファルツ選帝侯[[カール1世ルートヴィヒ (プファルツ選帝侯)|カール1世ルートヴィヒ]]、[[カンバーランド公]][[ルパート (カンバーランド公)|ルパート(ループレヒト]]は兄、[[ハノーファー王国|ハノーファー選帝侯]][[エルンスト・アウグスト (ハノーファー選帝侯)|エルンスト・アウグスト]]妃[[ゾフィー・フォン・デア・プファルツ|ゾフィー]]は妹、[[グレートブリテン王国|グレートブリテン]]王[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]は甥に当たる。
 
父が[[三十年戦争]]に敗れ亡命した[[ネーデルラント連邦共和国|ネーデルラント共和国]]の[[デン・ハーグ|ハーグ]]で生まれた。[[1632年]]に父が没した後に[[フランス王国|フランス]]へ移住、[[1645年]][[4月24日]]に[[マントヴァ公国|マントヴァ公]][[カルロ1世・ゴンザーガ=ヌヴェール|カルロ1世]]の娘[[アンヌ・ド・ゴンザーグ・ド・クレーヴ]]と[[パリ]]で結婚、[[改革長老教会|カルヴァン派]]から[[カトリック教会|カトリック]]へ改宗したが、これを知った母から勘当された(後に許される)。
 
1663年、パリで没した。アンヌとの間に生まれた3人の娘はエリーザベトを通して[[ステュアート朝]]の血を引いていたが、カトリック教徒だったために[[1701年]]にイングランドで制定された[[王位継承法]]で排除された。代わりにゾフィーが王位継承者に選ばれ、[[1714年]]に彼女が、次いで[[アン (イギリス女王)|アン]]女王が没した後のイギリス([[1707年]]にイングランドとスコットランドが合同、[[グレートブリテン王国として]]が成立)王位はゾフィーの息子ゲオルク・ルートヴィヒが[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]として即位した。
 
== 子女 ==
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{{DEFAULTSORT:えとうあると ふおん てあ ふふあるつ}}
[[Category:プファルツ=ジンメルン家]]
[[Category:1625年生]]