「仙台宮城野原競馬場」の版間の差分

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==仙台宮城野原競馬場の廃止==
翌昭和4年春季も仙台宮城野原競馬場で競馬が開催された。しかし、[[昭和]]4年7月、農林大臣より「仮設競馬場に於いて、勝馬投票券・景品付投票券の発行をしてはならない」旨の通牒が来た事により、昭和4年秋季以降の仙台宮城野原競馬場での開催は難しくなった。もとより練兵場の一角を借用しての仮設競馬場での開催であり、まさか練兵場内に常設競馬場を建てるわけにもいかず移転を余儀なくされたのである。安西定雄著「小牛田の町の物語」には、「練兵に支障あり」と軍部からの反発もあったとの記述が見られるが、騒動から60年近く経過してから書かれた書物でるため真偽の程は定かではない。主催者事績書の宮城県産馬要覧と当時の河北新報記事によれば、遠見塚、三神峰、台の原、向小田原、七北田、金洗澤、愛子、高砂、八木山等の土地所有者から、競馬場誘致の出願があったようである。又、河北新報昭和3年9月11日の記事には、八木山、高砂に[[競馬場]]の設置を検討中との記述がみられる事から、昭和4年以前から競馬場の移設については懸案が上っていた可能性が高い。結局、加藤忠三郎なる人物が発起人となっている、愛子競馬協賛会の土地提供の申し出を受けて、常設競馬場の設置は[[愛子]]と決まり、昭和4年11月より、公式競馬の開催は[[愛子競馬場]]へと移り、仙台宮城野原競馬場は歴史からその姿を消したのである。
 
==参考文献==