「疑似科学」の版間の差分

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{{科学}}
'''疑似科学'''(ぎじかがく,正しい用字では「擬似科学」)とは「まがいものの科学」あるいは「ニセものの科学」である。つまり、[[科学的方法]]に基づく、あるいは科学的に正しいと認められている知見であるかのように誤認されているが、実際にはそうではないものを指す<ref>''Oxford English Dictionary'' Second Edition 1989. "A pretended or spurious science; a collection of related beliefs about the world mistakenly regarded as being based on scientific method or as having the status that scientific truths now have."</ref>。英語で対応する語は「にせの」「まがいの」を表す ''pseudo-'' と「[[科学]]」''science'' の[[複合語]] ''[[:en:pseudoscience|pseudoscience]]''(/sudoˈsaɪəns/; スドサイエンス)である<ref group="注釈">語源的にはそれぞれ[[ギリシア語]]で「偽りの」を意味する{{lang|el|ψευδής}}「''pseudēs''プセウデース」、「知識」という意味のラテン語「scientia」に連なる。</ref>。
 
== 概要 ==
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例えば「時空が歪む」とする[[相対性理論]]や「[[永久機関]]は存在しない」とする[[熱力学]]の法則は、疑似科学者達に頻繁に攻撃される傾向にある。特に相対性理論は素人には誤解されやすい理論であり、こうした攻撃の根拠の一つとして「宇宙はシンプルである」事が挙げられる。すなわち、シンプルであるはずの宇宙で、時空が歪むような「複雑な」現象が起こるはずがない、というのが彼らの主張である。
 
<!--{{要出典範囲|現時点での科学的知見と矛盾する主張であっても、[[科学的方法]]によって証明可能であれば、いずれその主張は認められるし、科学はそのように発展してきた(例:相対性理論)}}、と{{誰}}は述べた。--><!--{{要出典範囲|疑似科学の定義は、[[科学的方法]]による検証が不可能もしくは不十分な理論}}だと{{誰}}は述べている。--><!--{{要出典範囲|そのため、擬似科学のような主張は科学専門誌への掲載が受理されないだけでなく、[[査読]]に回らないことが普通である。}}と{{誰}}は述べた。 -->
 
<!--{{要出典範囲|その他の傾向として、疑似科学的な主張を行う者のなかには[[ディプロマミル]]で取得した博士号を権威付けに使うこともある(「[[水からの伝言]]」を発表した[[江本勝]]など)。}}と{{誰}}は述べた。-->
==疑似科学への批判==
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</ref>。
 
====[[ソーカル事件]]====
{{main|ソーカル事件}}
<!--
一部の学識者においては、科学的な専門用語をもともとの意味を無視し、あるいは理解せずに自分の言説に援用する者がある。これは一般向けの著作に限らず学術出版物などにおいても自説の権威付けのために行なわれることがあり、これも科学の体を装った別種の言説として批判される。よく知られているのは、物理学者の[[アラン・ソーカル]]がこのような事態への批判として科学用語を敢えて出鱈目に使用した「疑似哲学論文」を作成し、[[ポストモダン]]系の人文学評論誌『ソーシャル・テキスト』に投稿したところ編集者がニセ論文と見抜けずに見事に載録されてしまった(1996年)ことに端を発する「事件」である。ソーカルはその後数理物理学者ジャン・ブリクモンとともに『「知」の欺瞞』(原題:Fashionable Nonsense)を発表し、ポストモダンないしいわゆる[[フランス現代思想]]と呼ばれる人文学批評に疑似科学的な表現があふれている事実を告発した。この中でソーカルらは「用語の本当の意味をろくに気にせず、科学的な(あるいは疑似科学的な)用語を使って見せる」行為、「人文科学のあいまいな言説に数学的な装いを施して『科学的な』体裁をつくり出すための絶望的な努力」を批判している<ref>『『知』の欺瞞』p. 6, 18, 50.</ref>。[[ジャック・ラカン]]や[[ブルーノ・ラトゥール]]らの創作物には「人文学の作品における科学用語の使用は比喩的表現ではなく、本来の科学用語としての意味で用いられている」というような意味の文章が織り込まれているものがあるが、ソーカルらは彼らの人文学上のフィクションにおける「科学」や「数学」は「あまりにも荒唐無稽」であると述べている<ref>『「知」の欺瞞』p. 27, 50</ref>。比喩に関しては、ソーカルらは比喩や詩的表現そのものは批判しておらず、「簡単な事を難しく言うために」こうした表現を用いることを批判している<ref>「[[メタファー]]は馴染みのない概念を馴染深い概念と関連させる事で説明するために使うものであって、決して逆の状況では使わない」「場の量子論についての非常に専門的な概念をデリダの文学理論でのアポリアの概念にたとえて説明したら〔...〕学をひけらかす以外いったい何の役に立つのか、と思うはず」(『「知」の欺瞞』p. 14)</ref>。
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===社会的な観点からの批判===
====疑似科学と悪徳商法====